指導案をカエル #1現場の課題

 現在の型の指導案はいくつかの阻害を生み出している。
 もちろん定型化のメリットもある。
 なぜなら教員の中にはキッチリした話をしたい人もいるからである。
 しかし、状況はフリートークが得意な芸人もいれば、決まった台本で能力を発揮する芸人もいるのと良く似ている。

 これはどちらでもいいのだと思うが、ヘンだと思うのがキッチリしている人間がフリートークを否定する発言をするところなんですよね。なんの根拠もなく。まっすぐで白い野菜を好む日本人の悪いトコです。

 教科教育の研究において指導案についての検討が行われているがそのなかでも特にヒドイのが算数数学教育からのアプローチである。さすがに数式にしか興味のない人たちは読むに耐えない日本語を使いますね。まさか学術論文で堂々と文章の使いまわしをする輩がいるとは思いませんでした。しかも比較研究とは言え、およそ学術論文には似つかわしくない論拠とも呼べない言い回しで「理論なき実践」などといういちゃもんをつけています。だれかこれに異を唱える人はいなかったのでしょうか。

 ハッキリ言えるのは否定する側の人間の方が間違っているということ。ただそれだけ。否定がダメなのではなく、否定の仕方が良くない。きちんと論拠を示して対話に持ち込むというのは最低限のルールです。

 教育現場の議論では、能力の低い人間に限って型を重視する傾向にあります。
 そやつは育ってくると型に沿うことに価値を見出してそのことを他者にも強要するようになります。老害の典型です。これは大学の研究とやらでも通じる話です。
 さりとて視点ずらしで古さを否定する話にも乗りたくはありません。ずらすのではなくて、やはり創ることです。

 言いたいのは本質を探究するということは、方法の面では常時変化する必要があるということです。ないものに向かっていくということはそういうことなんだろうという直感です。

 さて本題。ではどこを変えていけばいいのだろう?
 もちろん、私の変え方が正解というつもりは毛頭ない。
 ただ一つの考え方としては指導案は研究授業と通常の授業ではその役割が明確に変わるということ。別に必ずしも変える必要があるわけではないのですが、力の入れ具合から、その授業の持つ性質から変わらざるを得ません。通常の設計図としての側面と研究としての側面ではその役割は自ずと変わるのでしょう。しかしわたしは常に研究や修養としての側面を入れています。よって通常の指導案というのが存在しない。理由は簡単。私にはそれほど遺された時間が多くない。明日死ぬかもしれないのに、折角やらしてもらってる担任でありきたりな授業をやるなんてもったいないことこの上ない。カッコつけてなくて本当にそう思っているんです。
 しかしあまりフツーからハズレたことをやるとクレームも来ます。実は今日も来ました。少し落ち込んでいますが致し方なし。即撤退です。これが子どもにとっての学びになるかどうかは明日のフォロー次第なのかな?

 今回はどちらを目指したにせよ、指導案の存在が教員研修のあり方の変革を阻害してきたのではないかという仮説の下、とりわけ研究授業における意図の伝わりやすく対話になりやすい指導案の形とは何かを考えてみたい。
 というかもっと正直に言えば、いわゆる指導書の指導案という一般性からどれだけ距離を取ることができるかを目指していきます。
 指導書の指導案は学習指導要領の一解釈であって、その解釈が正しいとは言えないから、もっといえば教材そのものが学習指導要領から見て最適に近いとは言えないからである。目的が先か、教材が先かと問われると答えに窮する。ただ一言、状況次第としか言えないからである。つまり授業づくりにおいてはクラスルームの状況が最も優先されるべき事項なのである。校内研修がここに課題を抱えざるを得ないのは、教員や学校がやりたいことが全てを優先する状況が前提として横たわるからである。
 このハナシはこうした状況を打破する目的もあります。

長くなったので内容は明日へ続く。にします。

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