指導案をカエル #2 それこそ不易と流行そして真実と

 現在の型の指導案はいくつかの阻害を生み出している。
 そうした発想で指導案を変えるために幾つかの提案をしてみようというハナシの続きです。
 今回は具体的な提案をしてみようと思います。
 そもそも指導案そのものについて言及、研究している資料が多くないこと自体に驚いています。
 基本県レベルの教育研究所とかあとはマニュアルな月刊誌やマニュアル本が触れている資料ぐらいしかない。
 一番驚いたのは、指導案の書き方といって字の大きさが何pt、1行空けるとか、枠線の中に収めるとか、1マス空けるとかここは空けてはいけないとか・・・どーでもよくないか?
 今でこそハンコ主義は否定され始めましたが、30年前には指導案の授業者のところには朱肉の印鑑を押す文化があったんです。トガりにトガりまくっていた若手時代の私は老害たちに反抗の意を示すためにその部分にご褒美ハンコの中でも一番ふざけているだろうものを選んで押して配布しました。結果は当然各方面からのご指導の嵐です。今ならパワハラで一発ですがね。笑い話ですが。
 
 指導案をカエルとき、指導案の構成を変えることと指導案の発想そのものを変えることは別に考える必要があるのかどうかを今回すごく考えさせられましたね。
 なぜなら研究者はそこにかなりの紙幅を割いていてダラダラとそれこそどーでもいいことを先行研究と宣って書き散らかしていたからです。今回はそうしたことを両面含んで改変を考えます。発想を変えれば必然構成も変わると思うからです。これは光は波であり粒でもあると考えなければゲンジツに起こっていることの説明がつかないことと同様です。

目的を変える

 授業の目的をクラスルームに合わせていくということです。教材が優先でも教員の側の都合でもないということです。
 指導のしやすさというのは、成功を前提においた思考です。失敗が前提ならそう考える必要がありません。たとえ研究授業であってもその建て付けは変わりません。
 学校の研究目標に則った形でクラスルームが最も必要としている知識や技能の獲得を狙っていかなければなりません。成功するか失敗するかは二の次です。教師が意図的に授業するための設計図であり、研究であるという考え方は基本的に昔から変わっていないはずです。とりわけウデのある教師は普遍的に無意識に日常的に訂正可能に誤配の可能性も込みで行っているということです。

観の取り扱いを変える

 教材観、指導観、児童観という既存の観を使って授業観を構築するやり方が通常ですが、この順序が今機能していないことが多いです。さらにこの内容を研究討議で議論の遡上に乗せる人間を私は信用しません。見方に良いも悪いも、正しいも間違いもないからです。しかも順序が逆である可能性も考慮にいれるなら、つじつまが合わなくなってるのは当然だからです。
 それ以前に教材観や指導観は授業者のこの授業における意図の具現化であるハズなのに、これがコピペや指導書のまんまであることの方が圧倒的に多いんですね。
 私も佐藤学さんよりはたくさん授業を見、指導案のある授業をしているので指導案を見ればああこれかというのは良くわかります。無駄なモンをそぎおとした官僚の作文風の独特の指導書臭がするんですよね。
 私は観というのは最近流行りのデータ主義やコピペで見栄えが良いものより主観まるだしの意図的な独りよがりであることを支持します。
 そこから本時へと一般化しバージョンアップしていくことがよいのではないかと思います。観は議論の対象ではないが授業者の想いを具体化するための重要な物語なんです。

単元の流れを変える

 こちらもクラスルームの状況に合わせます。というか合わせざるを得ないと思うのですが、なぜかどの指導案も出口に向かって進んでいく傾向にあります。たぶん単元マスタリー・ラーニングから出た積み重なり神話の産物だと思われます。
 つまり単元最後の用意されている取り組みにおける作品の最終的なデキに照準を合わせるんですね。
 これは多分マズイ。なぜなら研究授業の場合は本時がトップオブトップスになりがちというかほぼそうだからです。あとは尻すぼみというか研究授業で燃え尽きて惰性になっちゃうもんです。
 それならば研究授業は常に単元の最後が充てられて然るべきなのですがそうはなっていない。出口を意識する流れにしたところで現実的ではないということです。
 であるなら授業のその時その時での到達点を意識的に示していく方が意味のある指導案になるのではないかと思います。

評価規準を変える

 キジュンの話はこれまでも度々してきました。
 ここにも授業者の主観的な意図への寄与が期待できる評価の方法論がとられるのがよいと思います。実は基準でも規準でも結果はさほど変わらない。とりわけ小学校においては。しかも評価規準にはどうやら被評価者の意欲を殺いでしまう作用がありそうだし、学習の価値を誤誘導するはたらきをしかねないのではないかとまで思い始めた次第。評価論者はもう少し広い視野で誰のための評価なのかを考える必要があると思います。

本時の流れを変える

 研究授業の場合、流れに縛られて失敗するというのはあるあるです。あくまでも目安である本時の流れが時系列で固定的に並ぶことはこれからの探究や対話を主眼に据えた指導案では逆に避けた方がよいのかもしれません。
 これもすでに提案してますし、たまにみるようになったフローチャート型とか図のような形式での指導経路や学習状況の把握するスタイルは広がっていくのではないかと思います。
 とにかく一方向に向かって収束していくことが授業の目的になってしまうことはクラスルームのどのセグメントの子どもにとっても望ましいことにはならないということになるだろうと思います。
 導入−展開−まとめorふりかえりという形が提示−方法の検討−話し合い−まとめ−検討−ふりかえりというような細切れかつ個人・少人数・班という分母での取り組みというように細分化と細分化を掛け合わせることで個別最適化風なものを実現していくスタイルに変更されるのかもしれません。

補足 ICTの出番を変える

 ICTは添え物です。静かに短く効果的に在るのがよいと思います。方法として主題の邪魔をしない。これは40年前の情報教育の理論、As tool つまり道具として という発想です。とかくイノベーションはICTの道具を主題に据えがちですが、そうはならないことがこれからの授業スタイルであるように感じます。

 指導案をカエルということは、どう変えるかに主眼があるのではなく、変えること自体に価値を見出していく発想です。それが教育現場における主体としての教師の独自性と創造性、そこから続く持続性につながっていくからです。そして教員になりたい人間を増やしていく一助なんだろうということです。


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