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【暴走妄想考察】キリスト=ルシファー説の提唱_プロローグ【閲覧注意】

※本記事は読者の方を不快させる可能性のある表現や言葉を含みます。
※タイトルに嫌悪感を覚えた方は、以下の記事を読み進めないことを
 強く推奨いたします。

いかにも挑戦的なタイトルである。
敬虔なクリスチャンの方からは猛烈に怒られそうだ。
だが、長年、私の中で拭いきれなかった仮説である。
いや、年月を経るごとに益々その仮説は私の中で確信を深めてきた。
いやいや、正確には違う。その仮説が私というフィルターを通して
一つの物語性を帯び始めた
のだ。

この説の提唱にあたっては
私も旧約聖書や新約聖書の読み直しとともに
キリスト教布教の歴史を再度学びなおす必要がある。
故に、今はざっくりとこの仮説に至った経緯とエピソードを
プロローグという形で話していきたいと思う。


この説に至った経緯

直観と直感と妄想、そして個人的トラウマとヨブ記の思い出

最初から身も蓋もないことを言おう。
私の直観と直感が原点だ。
そして個人的な苦難の経験とヨブ記の思い出による。
そこから派生した妄想じみた考察が仮説を生み出したのである。

トラウマを引きずった青春時代

私は学生時代、とある出来事で心に深い傷を負い、
以降、精神が不安定になっていった。
いつか小説風に書いてもいいかとは思うが、
ここではあまり触れたくない。
友人が青春を謳歌する中、所謂引きこもりとして休日は外出せず、
ただただ家の中をうろついていた。
私の世界は鬱屈とした学校の中の景色と家の窓枠に切り取られたスクエア、
そして飽き飽きとした家の中の景色だけだった。
他の人には当然のように与えられている楽しみが私にだけ付与されない。
与えられるのは鳥かごの中の鳥のような心理的不自由と苦悩だけだ。
それはなぜだ?私が何の罪を犯したのだろうか?神は私のことが憎いのか?

ヨブ記の思い出

もう一つは幼いころに読んだヨブ記の記憶だ。
私の祖母が過去にキリスト教系の幼稚園で先生をしていたことからか、
エホバの人が良く訪ねてきていた。
祖母も我が家もエホバではなくクリスチャンでもないが、
人のいい祖母はエホバの証人が持ってくる漫画版旧約聖書を受け取り
せっかく頂いたのだからと私に読むよう勧めてきたのである。

ヨブ記は旧約聖書の中でも割と有名な話だが、
ざっくり乱暴に以下に概要を説明する。(ネタバレあり


めっちゃいい人で何の罪もない信心深いヨブという男がいた。
神はヨブの信心と神への愛を本物かどうか試すため、
ドン引きするくらいの酷いこと(家族殺すとかヨブを病気にさす)をしたり、悪魔を使って神への信仰を捨て去ることを唆すという
とんでもエピソード満載である。
ここで描かれる神はえげつないドSのサイコパス野郎だ。

最終的にヨブはすべての理不尽な仕打ちに耐え抜き
信仰を最後まで護り通したため神から褒美(新しい家族とか家畜)を
与えられた。
こっちもこっちでとんでもないドМ豚野郎である。


私はこの話が心底大嫌いだった。
幼心に「理不尽だ」という感情が芽生えたのである。
最早その時点で「神」という存在に対し懐疑的な目を向けていた。
齢4、5才くらいだったかと思う。

神への恨みとヨブ記の記憶の邂逅

青春時代にトラウマを抱え煩悶とする日々を送る私は
自分がこの世に生を受けたことにすら否定的になり、
疑問を持つようになり、最後は本格的に神を恨むようになった。
憎むではなく恨むだ。
そうした中でふと思い出したのが、
先ほどご紹介したヨブ記のエピソードである。
「私はヨブと同じ仕打ちを受けているのだろうか?」

キリストとルシファーの「象徴」としての共通点

どちらも「明けの明星」が象徴として語られる。
なぜサタンともいわれている堕天使ルシファーと救世主イエスが
同じシンボルのもとに語られるのだろうか?

ルシファーが堕天した真の理由を妄想考察

私は俗説である「ルシファーはアダムに仕えるのが嫌で神に反逆した」とは
違う解釈をしている。
というか妄想を重ね、別のストーリー辿りついた。
私の練り上げた物語はこうだ。

ルシファーは
「神の人間に対する理不尽な仕打ちへの反発心と人間への憐み」から
人間側の救世主となるべく神に楯突き反乱を起こした。

ここで例のヨブ記が登場する。
ヨブの信仰を捨て去るよう誑かしに来た使いの悪魔、
それがルシファーだったのではないか

ヨブに対するあまりに理不尽な仕打ちを目撃したルシファー。
そして更にそのヨブに対し、何よりも大切にしていた神への信心を
捨て去るように仕向ける自らの役目。
身も心も大天使の中で一番美しかったルシファーにとっては
それこそ耐え難い苦痛だったであろう。

ルシファーはそのやりきれない思いから神に反逆し
そして堕ちた。

救世主イエス・キリストの誕生

通説では聖母マリアの処女懐胎により生まれたとされている。

この話そのものもそうであるが、
ガブリエルが聖母マリアに受胎告知をする絵画や
「洗礼者ヨハネ」がイエスの到来を告げるダヴィンチの絵画が
有名ではないだろうか。

だが私はこの話にある要素を付け加えたい。
それは聖母マリアがそのお腹に宿した救世主
まさに天から舞堕ちてきたルシファーだったのである。

つまり私の見解では
ルシファーの堕天はそのままキリストの誕生につながっている
のである。

ルシファーは自ら堕天を選択したか

私はそう思う。
神に対して謀反を起こし、戦いに敗れたから堕ちたのではない。
そもそも神への反逆はルシファーがキリストとして地上に降り立った時点からスタートし、現在に至っても戦いが続いていると筆者は物語を創造する。
元々神に対して従順だったルシファーは神を攻撃することよりも何よりも
一刻も早く人間を救いたかったのではないか?
そんな優しく慈悲深い魂を持った堕天使、それがルシファーだと想像する。

ルシファー=キリストだとした場合、人類共通の「敵」は誰か

横暴なだ。私はそう考えた。
人はその理不尽さに歯向かうため科学を生み出し、
神に挑戦していったのではないか。
そう考えた時、
世間の神と悪魔のテーゼはここで逆転するのではないだろうか。

悪魔崇拝という概念と言葉を考える

ここまで記してきた通り、実はキリストこそが堕天使、
つまり悪魔だとすると陰謀論などで語られがちな「悪魔崇拝」という意味が
少し違った見え方をし始めるように思う。
また、私の曖昧な記憶で恐縮だが、キリスト教は布教の過程で
異教の神々を悪魔として取り扱い吸収してきたと認識している。

つまり何が言いたいかというと、
現在のキリスト教には欺瞞と嘘が隠されていて
「神」と「救世主」と「悪魔」という存在について
我々を欺くための巧妙なレトリックが仕掛けられているのではないか
ということだ。

キリスト教をここまで冒涜した挙句、
結局まとめの部分で何が言いたかったかわからなくなってしまった。
グダグダだ。
とにかく「悪魔崇拝」というレッテルとして機能している言葉は
我々を逆に窮地に陥れようとする危険性がある

私の中の叡智が語っている。
そう、それが言いたかったのである。

大変恐縮ではあるが、本項に関しては別途もう少し整理して
改めて記事にしたいと思う。
今回はなんとなく感覚でとらえていただきたい。

まとめ

私は私の中で育まれたシン・約聖書として
本記事に記した「イエス・キリスト=ルシファー説」を
提唱していくつもりだ。
まだまだ未熟でこの説を確立するために研鑽が必要であるが、
私のインスピレーションは「明けの明星」からその煌めきを授かっている。

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