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『ゴジラ-1.0』考察/何を見るべきだったのか


今、『ゴジラ』をどう観るべきか

本日、渋谷で『ゴジラ-1.0』を観てきた(以降『-1.0』と表記)。
放映開始からすっかり遅くなってしまったが、観てよかった!と思った。話の筋は分かりやすいし、ミリタリー好きとしては兵器の名と戦闘シーンで盛り上がってしまう(震電最高!高雄良いよ!!)。
何より浜辺美波演じる典子が可愛い。この可愛さのおかげで、映画の美的価値が支えられていると言って良いと思う。マジで、真面目に。そんなことを言っていると、まるで中身への感想がないのかと言われそうだが決してそうではない。

真面目な話をするなら、ちゃんと面白いと思わせつつ、観客を「熱狂」に巻き込みすぎない、そんな良い塩梅がとられていたかなーと感じた。単に政治色が弱く感じられただけかもしれないが(『永遠の0』と比べると?、こちらも好きな作品だけれど)。
この、『ゴジラ』系作品が背後に持つ「熱狂」というものは日本人の精神性を語る上で(「日本人」とくくれることも大切なことだ)とても重要なキーワードであるので、後に触れることにする。では、本編に移りたい。

日本人にとっての「戦争」

「父性の敗北」の象徴として

江藤淳の『成熟と喪失』は、近代日本の「父性」と「母性」についての重要な著作だが私はちゃんと読んだことが無い。一応の知識では、日本は敗戦によって「父性」の権威が崩壊し、戦後の世代は「父の不在」に悩まされたということのようだ。

この指摘はとても重要で、例えば『-1.0』の主人公「敷島」が戦争中のトラウマに苛まれ、なかなか典子との結婚に踏み切れないことには、彼が「父」としての力を喪失してしまったことが端的に表れている。本作はまさしく、「戦争」によって失った「父性」、言い換えるなら「戦後を生きるための力」を取り戻す物語だった。

戦争×ラブストーリー

戦争物語の中で恋愛要素が主軸となる作品はとても多い。なぜそんなに親和性が高いのだろうかと考えることは案外簡単な気がする。
出征していった若者たちにとって、戻るべき本国の象徴として「恋人」や「妻」という存在はあっただろうし、個人的な「男」として「父性」を失い無力な状態にあるのを充足させてくれる存在と言えるかもしれない。戦争で引き裂かれる、というシチュエーションも鑑賞者の心に訴えかけるものだ。なんかずいぶん一方的な解釈かもしれない。

ただやはり『-1.0』でもたびたび言及されていたように、典子との生活の中で、戦争で果たせなかった「自分の役割を果たし直す」ことはとても重要なテーマだっただろう。今作の主人公「敷島」においては、「命を懸ける」、「典子をめとる」という二つの「決断」が印象的に示されていた。

ただここで注意したいのが、「典子自身の問題」の扱われ方についてだ。「浩一」(敷島)と結ばれたいと望みながら、彼自身の苦悩を理解するがゆえに自分からは決して言い出さず、「私も自立しなきゃ」といって銀座に働きに出るもその顔は暗い。そして、彼女と結ばれる決意をした浩一は、ゴジラから典子を守ろうと手を引いて逃げるも力及ばず、、、という展開は見事だったが、典子が主人公に従いすぎている感が否めないのも事実かな、と思った。

戦後八十周年が迫りつつある今

現代では戦争を経験している世代どころか、その世代の下で生まれた人々も現役を退く時代になった。つまり、「父性の喪失」を実感したことのない若い世代が中心になりつつある。この若い世代が果たして「父性」を保っているのか、失っているのかは分からない。

ただ大事なこととして、若者もこの『-1.0』を通して「戦争を経験した日本」を語ることが可能になった、ということを言いたい。戦後日本の様々な思惑と感情を背景にして制作された初代『ゴジラ』から数十年を経て、現代の若者も、自分たちの国には何があったのかということを、『ゴジラ』を通してその精神性を知るということが出来るのは重要なことだと私は思う。後述するが、「大きな物語」を持ちえない現代の世代が、暴走的な運動に走る前に立ち止まる時が来ているのかもしれない。

戦争は行かない方が良い

水島四郎がついてきた意味

『-1.0』の自己言及的描写として、「戦争」に憧れる青年「水島」の存在がある。彼は、戦争から帰ってきた敷島の前でも、兵士になりたかったとこぼす、ある種の熱狂を持ってしまうタイプの人間だが、この「水島」は、戦争映画を観て感動してしまう私達「観客」、ひいては現代人そのものである。ミリタリー趣味が云々され、歴史認識や主義の対立が取り沙汰されることが多いが、そんな指摘に対して本作は、水島の存在によってある程度対抗できる強度を持っている。

本当に喜ぶべきこと

この水島だが、物語終盤では、周囲の反対を押し切ってゴジラ討伐に参戦してしまう。結果的に彼の加勢は味方の有利となったが、注目したい点は、すべての作戦が終わった後、「敷島」にまっさきに駆け寄って彼をねぎらうのが水島だ、ということだ。これは私の個人的な感想だが、水島が一番求められていること、つまり私達に求められるべき行動はまず第一として、「出撃」することではなく、「敷島」を受け止めることだったと言えるだろう。

「熱狂」に抗って生きる

リオタールの提唱した、「大きな物語」という概念がある。これによれば、近代の人々は、宗教を基にした共同体から離れたことで、自分自身の人生の「意味」付けを生活の中の「小さな物語」に求めざるを得なくなった、というのだ。私達が生きる現代は、ポストモダンと表現されるように人生を色づけてくれる物語が乏しい。そこでは、「歴史」や「戦争」というものは大きな意味を持ちすぎるのではないか。それらは「熱狂」の対象となりやすいが、その分危険性も孕んでいる。その意味で『-1.0』は、物語ラストで浜辺美波(観客は浜辺美波を求めてたんだよ!)と「浩一」の再会シーンを演出することで、文字通り、戦争から日常へと意識を「戻って」こさせることを可能にしていた。

現代人が真の意味で背負うべき重荷

とりとめのないことをつらつらと書いてきたが、私がこの作品で学びたいのはやはり、「決断」ということの重みと、それをすることで他人と「生きる」という指針である。

「決断」というのは広がりのある行為であり、「引き金を引く」ような具体的なものから、「同棲生活から家族へと関係を進める」というような精神的変容まで、なかなか一意に定まるものではない。
ただこのとき、「決断」をすることで自分自身に付随して現れて来る、多様な「意味」というもの。浜辺美波演じる典子と生活を共にし、更に彼女との関係を形にしようと決断した「浩一」が手にした、戦争を終えた後の「日常の色」というもの。
これこそが、「熱狂」に陥らずに自分自身の人生を、他者と共に歩む「平和」というものを掴むことに繋がるのかもしれない。そんな大仰なことを言いつつ今回の記事を終わりにしたい。

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