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秦氏の出自を消していく桓武天皇⑩ ~同化する秦氏たち~

前回、桓武天皇の生母が朝鮮半島の百済出身で、秦氏系「土師」氏出身だと書きました。桓武天皇が京都に遷都したのも、母方の秦氏らが京都に多く住んでいたのも理由の一つだと言われています。平安京は、経済・技術の両面で秦氏がスポンサーとなって造営。事務能力に長けた沢山の秦氏が役人として桓武帝に仕え、平安京は発展していきました。

平安京造営から約10年後の790年。
(秦氏系)土師氏を母方に持つ桓武天皇は、まるで自らの出自を隠すかのように土師氏に別の姓(名前)を与え、朝廷から土師氏の影を消していきます。
一説では、土師氏はヘブライのガド族をルーツを持つ秦氏の一族
ガド族は失われた10支族のなかで最も勇猛な部族。
桓武天皇は、土師氏に日本の姓を持たせ、完全に日本の氏族として、日本に溶け込ます意図があったのかもしれません。

桓武天皇が土師氏に与えた姓は二つあり、一つ目は菅原姓で、もう一つは大江姓。今回の記事は、日本に帰化した(秦氏系)土師氏の活躍編です。
土師氏の末裔から、明治維新を主導した長州藩が生まれます。


Ⅰ 桓武天皇が土師氏に与えた姓のうち、一つ目は菅原姓

桓武帝が(秦氏系)土師氏に与えた、一つ目の姓は「菅原」姓
この菅原姓からは、のちに菅原道真が生まれます。
道真を抜擢したのが、桓武帝直系の59代目・宇多天皇。
宇多天皇の母は、第50代「桓武天皇」の皇子「仲野親王」の娘で、「班子女王」という人物。宇多天皇は、両親ともに桓武天皇の直系。

宇多天皇は藤原氏の権勢を好まず、菅原道真を重用することで、藤原氏の権力を抑えようとしました。宇多天皇は道真を側近とし、積極的に政治改革に取り組みます。また(菅原道真から)唐の混乱や日本文化の発展の大切さを聞き、遣唐使の中止をとりやめました。

宇多天皇は、菅原道真の子を自身の女御にし、また、皇太子の妃にも迎え、2人はより強固な関係を築きます。宇多天皇が(道真を)そこまで登用したのは、藤原氏への反感だけでなく、かつての先祖(桓武天皇)の同族だった土師の血を引く、道真への信頼が背後にあったことが考えられます。
宇多天皇退位後は、息子の醍醐天皇も道真を重用。

しかし藤原氏が黙っているわけはなく、陰謀により道真は失脚し、大宰府に左遷。現在、菅原道真は『学問の神さま』として天満宮に祀られています。道真失脚後、藤原氏の天下は揺るがないものとして、栄華を極めました。


〈菅原道真を学問の神さまとして祀る、太宰府天満宮〉


Ⅱ 桓武帝が土師氏に与えた2つ目の姓は、大江(姓)

790年、桓武天皇は土師氏に「菅原」と、「大枝」の姓を与えます。
菅原氏からは、学問の神さまとして天満宮に祀られる菅原道真が登場。

(桓武天皇から大枝姓を授けられた)大枝氏は、大きな枝は折れやすく
「不吉」との理由で、「大江」の姓に変更。
大江氏からは優秀な学者・歌人が多く出現しました。

 +①土師氏⇒大江姓 から出現した平安期の有名人

『大江氏』と名を変えた土師氏からは、優れた人物が次々と出現。
平安期、華麗な恋愛遍歴で知られる和泉式部も大江氏出身
和泉式部は冷泉天皇の第3皇子為尊(ためたか)親王、次いでその弟の敦道(あつみち)親王と熱愛。その後、藤原道長の娘・藤原彰子に使え、女流歌人として活躍。彼女が詠んだ和歌は百人一首に登場します。

また、秀才と名高い大江匡衡(おおえ の まさひら)と、その妻で良妻賢母でしられる赤染衛門(あかぞめえもん)の二人とも「大江氏」出身
大江匡衡は漢詩文に秀でた学者で、文章博士や東宮学士などを務め、赤染衛門とは仲良く、おしどり夫婦として知られました。
和歌の才に恵まれた赤染衛門は、藤原道長の娘・藤原彰子に使え、紫式部や清少納言とも親交がありました。
渡来氏族としてやってきた(秦氏系)土師氏は、桓武帝から「菅原」姓や「大江姓」を授かり、日本に同化。華麗な宮廷文化を築きました。

〈京都の平安神宮〉
※明治28年(1895)に、平安遷都1100年を記念して、平安京造営を行った
第50代桓武天皇をご祭神として創建された神社


 +②土師氏⇒大江姓 から出現した鎌倉時代の有名人

さらに平安末期になると大江氏から、武人も登場。
大江氏から登場したのは、大江広元。広元は勇猛な武者でしたが、一方で実務能力が高く、知識が豊富で、文官としても活躍。

下級貴族だった大江広元は源頼朝 に仕え、鎌倉に赴任。広元は、源頼朝の一番の腹心として活躍し、(鎌倉)幕府の執権・北条氏につぐ・幕府ナンバー3の地位に昇りつめます。
(※2022年、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の一人に大江広元が登場。)

大江広元の子孫から「毛利季光」が生まれ、戦国時代の西国大名「毛利」氏の始祖となります。それから約200年後の幕末では、毛利藩である「長州藩」が、倒幕を推し進め、明治維新を主導。
それはフィクサー(黒幕)秦氏の本領発揮でした。

次回、フィクサー秦氏の日本統治編。
秦氏がどうやって日本のフィクサーとなったのか?
『謎の渡来氏族・秦氏の活躍』はもう少し続きます。


〈鎌倉の法華堂にある大江広元と、その子孫・毛利季光の墓〉



P.S.
秦氏は富士山王朝と合流し、その血脈は富士山王朝にも受け継がれます。
秦氏・徐福の末裔には、福山・福仙・福岡、といった苗字を持つ子孫たちがおり、(日本の地名にある)福山、福岡は秦氏の子孫が移り住んだ場所のかもしれません。

始皇帝から不老不死の薬を探すよう命じられ、日本にやってきた徐福ですが、秦(国)に帰らず日本に帰化。徐福は、始皇帝の関係者に見つからないよう、自らの子孫に「徐」の姓を名乗ること控えさせたと言います。

そのため徐福の子孫は「徐」姓を名乗らず、名前である「福」を名乗ったようで、徐福の子孫には、福山、福仙といった『福』という漢字がついていることが多いです。

徐福は富士山王朝の姫君を娶り、子供をもうけています。
ヤマト王権との戦いの際は、徐福4世の福仙が、富士王朝側の軍師として参加。徐福の子孫は、その後も富士山王朝と密接な関わりがあったようです。




〈参考サイト・文献〉

本だけでなく、実際に現地に行ったりして調べていますが、わからないことが多いです。だからこそ魅かれる縄文ミステリー!縄文の謎解きははじまったばかりです。(*ᴗˬᴗ)⁾⁾💕ペコリン