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月読尊と大山津見命はヤタガラスだった?! ~富士山王朝番外編~

以前、寒川神社のご祭神は月読尊だった!という記事を書きましたが、さらに調べたところ、月読尊と大山津見(オオヤマズミ)命、事代主は八咫烏だった!?という伝承が出てきました。
大山津見命は、日本総鎮守の神さま。八咫烏(ヤタガラス)は神武天皇が熊野を軍略した際、道案内した氏族。

大山祗(オオヤマズミ)神・大山津見(オオヤマズミ)命の親子は、別名『八咫烏(やたがらす』。この親子が没した後、ヤタガラスは事代主(ことしろぬし)に引き継がれた。

月読尊は月神で、満月・三日月など・・、月の数の分、子孫がたくさんいるそうです。全国に、八王子という地名がありますが、これは月読尊の8人の王子が移り住んだことが地名の由来。
月読尊は別名『大山祗(オオヤマズミ)神』。長男は『大山津見(オオヤマズミ)』命。同じ名前ですが、親子で漢字は違います。
オオヤマズミとは、オオヤマツミが語源で、「大山を積む(統べる)」の意味。これは、父から長男に継承された役職のようなもの。
この「大山」は神奈川県の「大山(阿夫利)」をさしていたようで、実際、富士山王朝と、(神奈川県の)大山は、深い関わりがあります。
神奈川県の寒川神社はパワースポットとして名高いですが、ご祭神である寒川比古(さむかわひこ)命は、古事記にも記載されない謎の神。一説では、寒川比古命は、月読尊と大山津見命の親子神をさします。
月読尊と大山津見命、そして事代主は本当に八咫烏だったのか?調べてみることにしました。



・そもそもヤタガラスとは?

ヤタガラス(八咫烏)は神武天皇が熊野を攻略した際、道案内した氏族。黒ずくめの服を着て(熊野の)森の中、木と木の間を飛ぶように案内したことから、ヤタガラスの名前がついたと言います。
奈良県御所市の金剛山に鎮座する葛木(かつらぎ)神社は、全国の一言主神社の総本社。地元では、一言の願いであれば何でも聞き届ける神とされ、「無言まいり」の神として信仰されています。

この葛木神社の初代が、神武天皇を案内した一代目のヤタガラスで、現在の宮司・葛城 裕氏は、系譜によると(初代ヤタガラスから)第134代目にあたる八咫烏(やたがらす)。葛木神社のある金剛山は今から1300年以上前、修験道の開祖・役小角(役行者)が修行した山。役小角は賀茂氏出身で、ヤタガラスも賀茂氏。役小角と賀茂氏は同じ一族です。

宮司・葛城裕氏は系譜によると初代八咫烏ヤタガラスから第134代目となるが、この八咫烏も論功行賞の対象になった。

「役行者、葛城王朝、葛木神社の葛城の由来」レジメ

諸説ありますが、ヤタガラスは別名ヤハタガラス。『ヤ』は日本では末広がりをさし、『ハ』の形は上から下に広がり、永久に発展していくさまを示します。この場合のは、「現在」という意味で、は「末」となり、未来や将来の方向をあらわします。
ヤタガラスは三本の足を持つ太陽の化身とされ、この三本の足はそれぞれ天・地・人を意味します。いわばヤタガラスは、天・地・人を結び、永遠に良い方向に発展していく太陽の化身である鳥を表しているようです。
またヤタガラスは賀茂氏出身。

下鴨神社の社伝によると、賀茂氏と出雲族は同族出雲族は三(3)と八(8)を聖数とし、八咫烏には、3と8の両方の数字が入っています。八咫烏は出雲族にとっても聖なる存在だったのかもしれません。
話は変わりますが、東アジア地域に、三足烏信仰があり、この三足烏は太陽の象徴とされ、金鶏(きんけい)と呼ばれます。
日本のヤタガラスも別名、金鶏。「神の使いの鳥」である八咫烏と、「太陽の霊鳥」である金鶏。この二つは共通点があり興味深いです。


・賀茂の祖神は事代主(ことしろぬし) ~出雲と下鴨神社~

初代ヤタガラスは賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)。賀茂建角身命は、京都の下鴨神社(賀茂御祖神社)のご祭神で、名前の通り賀茂氏出身。この賀茂建角身命の父が、出雲王家出身の事代主(コトシロヌシ)。
この事代主からカモ氏ははじまったとされます。
つまり、旧出雲王家(事代主)がカモ氏の先祖?!

下鴨神社(賀茂御祖神社)の社伝では、この伝承を裏付けるように、出雲族と賀茂氏は『同族』となっています。
下鴨神社の本殿前には、十二支をまつる7つの小さな社があり、これらは全て大国主命(おおくにぬしのみこと)の7つの別名。賀茂の氏神である下鴨神社は、大国主命をまつり、出雲への敬慕を現わしています。

出雲族が移住した葛城は銅が取れたこともあり、葛城山麓では、銅鐸(どうたく)が発掘され、現在、国宝として東京国立博物館で保管されています。
銅は柔らかく武器には向きません。争いを好まなかった縄文人は、銅鐸を中心とする青銅文化で栄えました。いわば銅鐸祭祀は縄文の名残でした。
しかし古墳時代に入ると、固い鉄を鍛えた刀が登場し、多くの人々を殺傷する戦争が多発します。

古代、葛城で銅鐸祭祀を行っていたのが、「神家」と呼ばれた出雲族。
出雲口伝では、この神家がのちに『カモ(賀茂・鴨・加茂)氏』
出雲の発音では神は「カモ」。奈良県の葛城(かつらぎ)に移住してきたのは、出雲の東西王家。それが神家であり、カモ(鴨・賀茂・加茂)の語源の元でした。その後、カモ氏の一部は、神道、陰陽道を司り、同族である出雲族とは違う道を歩いていきます。

旧出雲王家・事代主の子孫
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奈良の葛城に移りすみ、稲作で栄える
出雲で「神」を意味する「神家(出雲東西王家)」がカモ氏となる
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カモ氏の一部は、(神道を含む)陰陽道を司ることとなり、出雲族とは違う道を歩いていく

※カモ氏は、鴨、賀茂、加茂などの漢字で表される

※このカモ氏の末裔が、平安期の陰陽師・安倍晴明の師だった賀茂忠行・保憲親子。安倍晴明は賀茂氏の弟子で、彼らから陰陽道を学び、天文道を伝授されました。



・カモ(鴨・加茂・賀茂)氏と月読尊と大山津見命とのつながり

『月読尊と大山津見命はヤタガラスだったか?』について、色々調べましたが、彼らが八咫烏だったという記述はありません。しかしカモ氏とつながりは幾つかあったので、書いていきますね。

①まず月読尊とカモ氏とのつながりです。
月読尊は死後、富士山の一番近い標高に位置する宇宙湖(うつのうみ)近くの加茂山に埋葬されたとあります。はるか昔、山中湖は「宇宙湖」と呼ばれた場所。加茂山は富士宮市にある天母山。埋葬された場所がカモ(加茂)山ということは、月読尊はカモ氏と関わりがあったのかも?!

②次は大山津見命とカモ氏との関わりです。
寒川神社のご祭神は、寒川比古命と寒川比女命ですが、この神々は古事記にも登場しない謎の神。一説では寒川比古命は、月読尊や、その長子である大山津見命をさし、寒川比女命は、大山津見命の妻であるカモサワヒメ(加茂澤姫)ですカモサワヒメの父親は、出雲の事代主

(父)出雲の事代主
  ⇓
(娘)カモサワヒメ(加茂澤姫)
・大山津見命の妻となる。
・寒川神社のご祭神・寒川比女命と伝えられる

大山津見命とカモサワヒメの娘がコノハナサクヤ姫

大山津見命がヤタガラスだったかどうかはわかりませんが、事代主の娘カモサワヒメを娶り、大山津見命はカモ氏や出雲族と縁がありました。


・事代主がヤタガラスは本当か?!

月読尊と大山津見命がヤタガラスかどうかわかりませんでしたが、それぞれカモ氏や出雲族とつながりはありました。残るは事代主の謎・・。
カモの祖神・事代主は出雲王家出身。事代主は出雲半島の美保関でもまつられています。
当時、言葉による「説得」を「言向け」といい事代主とは、武力では無く言葉で国を治めると言う意味で、正しい漢字は「言治主」だそうです。
「事を知る」神とされることから、何かしらの出来事を意味する、託宣の神とされます。

古代、出雲の東西王家が奈良の葛城に移り住み、葛城一帯は稲作で栄えます。葛城山のふもとには出雲族が創建した鴨都波(かもつばじんじゃ)神社があり、御祭神は事代主です。この鴨都波神社では『事代主が八咫烏だった』との伝承があるそうです。
鴨都波神社近くには古墳時代後期から弥生時代の遺跡があり、この地でカモ氏が、農耕生活を営み栄えていたことを伝えています。
しかし、なぜ事代主が八咫烏なのかはわからずじまいでした・・。



・月読尊・大山津見命、事代主は八咫烏だったは本当?(結論)

結局、「月読尊・大山津見命、事代主」が八咫烏だったのかはわかりません。しかし月読尊・大山津見命はカモ氏と縁があり、(鴨都波神社に)事代主が「八咫烏と同一人物」との伝承がありましたが、こちらも詳細ははっきりしませんでした。


今から約2000年以上前、先住民系?出雲族が近畿の大和に移り住み、葛城一帯は稲作で栄えます。その出雲族のコトシロヌシから賀茂氏が生まれ、賀茂氏の一部は神道・陰陽道を司り、出雲族とは異なる道を歩んでいきます。そんな出雲族とカモ氏とのつながりを知ることができました。

現在、ヤタガラスは少なくても2つ存在します。一つはさきほどの葛木神社の宮司である八咫烏134代目
もう一つがwikiに載っている八咫烏結社。こちらは正式には八咫烏陰陽道。奈良時代から神道・陰陽道・宮中祭祀を司った賀茂氏の末裔です。

このことから、八咫烏の霊統は、葛木神社と八咫烏結社の二つに分かれたように思います。


・八咫烏の二つの霊統?!とその後 

 +❶一つ目の八咫烏の霊統・修験道の葛木神社

大阪と奈良の県境近くに位置する金剛山地。そこに鎮座する葛木神社は、修験道の開祖・役小角(えんの おづの)が最初に修行した聖地。葛木神社は修験道で有名です。

奈良時代に仏教が最初、日本に伝来した際、仏教は貴族など特権階級の信仰でした。それを庶民に広めたのが、役小角を始めとする修験道。
役小角は、仏は「山の神の化身」と説きます。
庶民にとって山は、山菜、薬草・獣の肉など恵みの宝庫。同時に生活に欠かせない水の水源地。森の木々は、家を建てる建材になります。山は庶民の暮らしと密接に関わっていました。
こうしたことから日本では古くから、「山の神」を信仰するアミニズム(自然崇拝)が根付いていました。そこに役小角が、山の神は、すなわち仏であると説いたことから、仏教は身近な『山岳宗教』として民衆の人気を集めていきます。

賀茂出身の役小角の活動(修験道)により、仏教は庶民の信仰を集め、やがて日本人の約70%が信仰する宗教となります。そして八咫烏の霊統をひく葛木神社は、修験道(山岳宗教)の聖地として崇敬を集めていきました。


 +❷二つ目の正統な霊統・八咫烏陰陽道

もう一つのヤタガラスの正統霊統である八咫烏結社は、古くから(神道を含む)陰陽道を司りました。八咫烏結社の正式名称は『八咫烏陰陽道』
陰陽道の 担い手である陰陽師は、国家専属の「占い師」として(天変地異の)災害や吉 凶を占い、呪術作法も行いました。
いつしか陰陽師は、陰謀渦巻く王都において、なくてはならない存在になります。また八咫烏陰陽道は、呪術や祭祀だけでなく、天文学などの専門知識を持つ高等呪術(方術?)集団として活躍しました。
こうして八咫烏の霊統は、「修験道」を中心とする葛木神社と、「陰陽道」を司る八咫烏陰陽道の二つに分かれたようです。


ヤタガラスの一つ目の霊統である葛木神社は『仏教』を含む修験道として、庶民に崇敬されます。
もう一つの八咫烏陰陽道(八咫烏結社)は、『神道』を含む陰陽道として、天皇や貴族の厚い信頼を得て、朝廷を護っていきました。

(八咫烏の霊統を受け継ぐ)修験道の葛木神社と、陰陽道の八咫烏結社は、奈良時代以降1000年以上にわたって、日本のスピリチャルな祖となり、国家を支えていったのかもしれません。



・縄文とヤタガラス

しかし事代主はなぜ八咫烏と呼ばれたのか?そもそも八咫烏とはどんな存在だったのか??その謎を解きたくて調べましたが、余計にわからなくなってしまいました。

縄文の謎解きは本当に難しいです。争いを好まなかった縄文人・・。そんな縄文祭祀の象徴だった銅鐸を大切にした出雲族。そこから生まれたのが「神家(=カモ 鴨・賀茂・加茂)」で、八咫烏もそこから生まれました。
そういった意味で、現代の二つの八咫烏は、縄文祭祀を受け継ぐ人々なのかも?と思います。

ちなみにWikipediaには「八咫烏陰陽道の祖は、奈良時代の吉備真備(きび の まきび)」とあります。
真備は日本における陰陽道の祖。真備は遣唐使として中国に渡りますが(中国で)困ったことがあった際、鬼に助けられた、との逸話が残っています。真備は一種の能力者だったようです。
そして真備は吉備(きび)王国出身。出雲口伝では、吉備王国は出雲族と同族(親戚)。真備は賀茂氏ですが、そのルーツは出雲族・・。ヤタガラスの祖が事代主でも、吉備真備だったとしても??どちらにしても、八咫烏のルーツをたどれば出雲族に行き着きました。
(出雲族は秦氏と並ぶ、縄文最大のミステリー氏族で謎だらけです。)

長くなりましたが、読んでいただきましてありがとうございます。
これからも少しずつ、縄文の謎解きを続けていきたいです。


〈参考文献・サイト〉


P.S.
富士王朝と賀茂氏のつながりの追記です。
平安期、富士山の大爆発で、富士山王朝の人々が避難したとされる神奈川県の寒川神社。この寒川神社のご祭神が寒川比古命と寒川比古命。
寒川比古命は、月読尊と大山津見命とされ、寒川比女命がカモサワヒメです。(※カモサワヒメは出雲の事代主の娘)

寒川神社は相模川すぐそばに鎮座しており、相模川の水源地は富士山近くの山中湖。山中湖は昔、宇宙湖と呼ばれ、月読尊の陵墓の近く・・。何だかいろいろつながっています。
(難しくて頭がこんぐらがります・・)


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