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君たちは、孤独で、強い

7月7日 金

前から見たかった映画見に行った。
是枝目当てでも、永山目当てでも、安藤目当てでもなく、
ポスターの二人の少年はかくも無邪気で憂鬱そうな目をしてるからだ。
まるであの時の自分みたいに…

高校時代のことだった。自分は好きな男子と仲良くなり、そして、デスクメイトになり、ハウスシェアまでできた。二人きりで。
担当の先生や母親に長い手紙を書いてまで成し遂げた、自分から見ればとてつもない壮挙だった。
しかし、先生や母親や向こうの父親からみれば、ただの仲の良い友達二人組だったのかもしれない。
そして、今日の『怪物』も改めて、一人一人の人間の目に見えている風景はこうも違ってくるのだと、気づかせてくれた。

途中から母親から先生に視点人物が転換したのは唐突だと覚えてはいたけど、考えてみたら、よくある手法だ。特に謎めいた物語には、必要な仕掛けでもある。
謎を一時的に伏せ、それを違う視点から掘り下げていく過程を観客は楽しんだり、驚いたりするのだと思う。

自分にとって一番の驚き、あるいは心が打たれたシーンは、断絶、平行のままの二つのラインがクロスする時だ。
というのは、視点人物を違いから浮かんできた物語が全く互いに干渉せずに進行しているからだ。
母親と先生と校長は、いじめ事件として扱い、それぞれの立場や思惑から行動しているのに対し、麦野と星川少年は自分の世界で、子供の世界の中で、悪意、好意、クラスの権力構造、そして二人の間の友情ないしそれ以上の何かに駆り立てられている。
全くの平行線だった。大人たちは思い込みと自らの体面で大人社会で事件まで醸成している中で、麦野と星川は、ただ、感情に素直になれない少年でいるだけだった。素直でいられないことがこんなにも、社会における大人の存在じたいを揺るがす事態を起こせるのか、と改めて社会通念を問いただす契機を与えてくれたと思う。

そして、私はやはり、線が交差する瞬間が大好きだった。
堀がとうとうただ良い先生ぶっているのではなく、作文の言葉に向き合い子供は何を考えているのかに気づいたとき、そして母親と嵐の中で、土砂崩れにもかかわらず、雨で流れる窓の上の砂利を手で払っても払っても払いきれず、最後には強引に窓をこじ開けて中に顔を覗かせたシーンや、
校長先生が麦野にサックスを教え、「いえないことがあったら「プッ!」って」と初めて目が蘇り、余生の力を振り絞ってるかのようにホルンを吹き鳴らすシーン(特にここは途中で伏線を埋め、うまく回収したなと感心した)、
この二つのシーンで大人と子供の間にやっと接点が合わされたと、希望が見えたと思い、胸がグッときた。

終映後、下の階段である初老の女性と彼女の娘らしい人の会話を聞こえた。
「結局誰が悪いんだろう。誰も悪くないじゃない」
「うーん、あのお父さんじゃない」
「そうだね。あのお父さんしかないね」

それもそれで、素朴で合理的な意見だ。
ただ、自分が思うに、誰か一人のせいにするよりは、
この作品、あるいはこの社会全体、
人を人として理解しようとする姿勢の欠如が悪いのではないか。
自らの悲しみと罪悪感だけに苛まれている校長、
陽気で学生思いのキャラを立てるのに浅いところしか目が届かない堀先生、
シングルマザーという言葉にやけに尖り、我が子の言葉を鵜呑みにする母親、
もちろん星川依里のことを最初から「豚の脳」だと罵る父親…

もう少し、子供を凝視してみよう、
いや、子供だけではない。マイノリティという課題も確かに提起された。
それら全て、一つ残らずに、ゆっくりと、焦らずに。

今日のところは、おやすみなさい。

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