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大阪で日本最古の道を巡礼したいという欲望

 僕は道が好きだ。道とは人とモノとが行き交う線のことで、ふと冷静になると、人類史上最大の建築物と言っても過言ではないのではないかと、思う。世界は道に溢れていて、つまり道の数だけ歴史と営みがあるということである。

 来たる(2019年)9月8日(日)、大阪市のOMMビルで文学フリマ大阪というイベントが行われる。文学フリマは、今回で7回目の開催のようだ。

 文フリ大阪へは、何度か出店者側として参加している。大阪への滞在は年2回、通過も含めると約4回立ち寄るわけだが、なかなか大阪の王道的な観光をできずに今に至る。
(なにもせずに帰ることはまずないのだが、大阪滞在中は大抵、不特定カルチャー誌『アレ』を刊行する〈アレ★Clab〉さんと行動を共にしていて、知る人ぞ知る大阪メシを堪能している。今田ずんばあらずは間違いなく大阪に胃袋を掴まれている。さすが天下の台所だぁ……!)

 大阪で、かねてより訪れたい場所がある。それが難波大道(なにわだいどう)跡である。

 難波大道。聞いたことのない方が大半だと思われる。ちなみに現在のなんば駅周辺には通っていない。(難波大道の難波は、「なにわ」と読む)

 この道は、大阪城に南にかつて存在した難波宮を起点に、大阪府堺市まで、一直線に南下する道である。おそらく、大阪平野を人の手で区切った、初めての人工物であり、これはさすがに言い過ぎかもしれないが……いや、批判を恐れず言うのであれば、升目状に区画整備された大阪の街並みを形作った、最初の一本目が、この大道なのかもしれない。

日本道路史のあけぼのを、ちょっとだけ

 日本における道路建設の記録は、7世紀(飛鳥時代)にまでさかのぼる。その多くが奈良県で敷かれている。その道筋が、約1300年後今もなお道として残っていたりする。
 例えば奈良盆地南端の飛鳥藤原宮から、法隆寺まで直線距離約16kmを結ぶ(※)直線道路、筋違道(すじかいみち。太子道の名でも親しまれる)というものがある。当時の道幅がどれくらいあったのかの資料は見当たらなかったのだが、同じく奈良県の古代道路、横大路の路面幅は35mあった。高速道路の1車線が3.5mなのを考えると、とんでもない広さである。さすがに筋違道もそれほど広いものではなかったろうが、後世に全国に張り巡らされた駅路(飛鳥・奈良・平安時代の官道)のことを考えると20mくらいはあったのではないかと考えられる。

 現在も筋違道は、分断し、狭隘化こそすれ、部分的に残っている。
 その多くが畦道になっているのだが、冷静に考えてみると大変恐ろしいことでもある。たかが畦道と思うかもしれない。いうことは、当然その左右には田んぼがある。ということは、一千年以上昔に引かれた線が、今なお土地の区分けに利用されているということである。

※厳密には完全な一直線の道ではなく、
諸々の事情で途中屈折している箇所がある。
詳細は参考文献のWatson's Page
「GPS考古学・筋違道の謎を解く」に詳しい。

 画像中央の黒田駅から南北に走る斜めの細道が、かつての太子道である。
といった具合に、一千年以上昔の道が今なお使われている例は他にも多くあるのだ。

日本最古の道、難波大道

 さて、では難波大道であるが、これは日本書紀にも記されている。

自難波至京置大道――『日本書紀』推古天皇二十一(六一三)年十一月条

 「難波より京に至る大道を置く」と書き下すこの一節だが、「京」とは飛鳥藤原京のことで、「大道」とは横大路・竹内街道・そして難波大道のことを指す(※)。
 前項で「日本における道路建設の記録は、7世紀(飛鳥時代)にまでさかのぼる。」と書いたが、この日本書紀に書かれた一節こそが、日本最古の道路建設の記録である。よって、難波大道は日本最古の道と言い表すこともできるのである。

※横大路は、三輪山南部から飛鳥藤原京を経て
葛城市長尾神社付近まで至る、東西一直線の道路である。
竹内街道は長尾神社付近から奈良県・大阪府の境である
竹内峠を経て大阪府堺市に至る。
そして堺市から難波宮までの南北へ通う道が、
難波大道というわけである。

 ただし、難波大道の道筋はほぼ失われており、筋違道のように辿るのは難しくなっている。しかし、地図を広げてみるとおおよその道筋が一目でわかる。なぜならば、現在でもこの道跡が境界としての役割を担っているからである。
 というのも、難波大道のあった道筋が、現在の市や区の境として機能しているからである。わかりやすいのが、堺市と松原市の市境だろう。

 中央を横断する大和川の南西部が堺市で、南東部が松原市である。中央部分を縦断する赤い点線は、難波宮から南に引いた直線で、難波大道の通っていた場所である。そして赤い点線に沿うように、青い破線が通っているが、これが市境である。
(ちなみに大和川北部も、大阪市住吉区と東住吉区の区境に、大道跡が被る)

 まるでアフリカの国境線みたく、見事な直線の境ができているが、この境界は近代から始まったものではない。
 実はこの境目は、かつて大阪府が摂津国、河内国、和泉国であったころから変わっていない。地図北西部が摂津国、東部が河内国、南西部が和泉国である。つまり、日本列島に五畿七道の行政区域が設定された時代に、この境界線は敷かれたのである。

 五畿七道が制定された時代。つまり、律令制が実施された飛鳥時代のことである。飛鳥時代といえば、ちょうど推古天皇期の「難波より京に至る大道を置く」時代であるし、さらにいえば五畿七道の原型は推古天皇期の後代、天武天皇の頃だといわれている。
 つまりこの難波大道の存在が、国の領域を決める重大な役割を担っていたという推測が立つのである。

 「たかが道ごときが国境になるわけねーだろ」と思われるかもしれない。しかし、当時の大阪平野の風景を思っていただきたい。そこに高層ビルはない。海は現代よりずいぶんと内陸にある。実際、現在大阪城のある台地が海にほど近かったという。おそらく湿地の広がる土地だったのだろう。
 見渡す限りの葦、葦、葦。ここに三つの国を設けよとの命が下ったとき、なにを基準にすればいいのだろうか。
 明確な人工物、難波大道である。難波大道を境界に、三方へ国が広がっていったのだ。

 道はロマンだ。道の数だけ歴史がある。
 普段何気なく歩いている道が、実は町を生みだした張本人だった、なんてこともあったりする。

 ……というように、今もなお生ける最古の道路、難波大道の道筋を、次の文フリ大阪の前後で訪れないなと、そう思うのであった。#唐突に終わる

蛇足

ちなみにこんな感じで古代の道が土地の境界になる例はいくらかあって、現在の福岡県と佐賀県の境に、不自然な南北の直線部分がある。これもその例なのだが、気になった方は自分で調べてみよう!#蛇足のくせに説明放棄するnoteマンの屑


参考文献

(2019年8月25日閲覧)


武部健一『道路の日本史』中公新書
 https://www.chuko.co.jp/shinsho/2015/05/102321.html
Watson's Page「GPS考古学・筋違道の謎を解く」
 http://watson.daa.jp/taisi0.html
(財)大阪府文化財センター『難波大道の調査』
 https://www.occh.or.jp/static/pdf/data/setumeikai/naniwadaido080524.pdf
堺・泉北 風景写真「「堺・泉北」?」
 http://blog.livedoor.jp/tam2014/archives/1005751883.html





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