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文章の中でもっと感情を爆発させてみる。文章でも、話していいんだよ。

文章って、真面目にコツコツ書くだけじゃない。
もっと「わーい!!」って思い切り感情を叫んでもいいんだ。


こんにちは、タツミです。


今日は朝10:00と少し、いやかなり朝遅い時間に起きた。
別に特別夜更かししたわけじゃないんだけれど。


朝起きて、一番最初に浮かんできたことがこれ。

文章でもっとしゃべりたい!!

ってこと!


今回の記事はそんな、午前中の魂の叫びについて書いていこうと思う。


・文章に堅さが抜けずに悩んでいる人
・感情のこもった文がうまく書けない人
・文章を読むのが苦手な人

こんな人にはぜひ読んでほしい。


文章=事実の羅列でしかない?


僕は、小学生の頃から図書館で本を読むのが好きだった。

ちょっと文字が大きめの児童書
普通の小説と同じくらいの文字の大きさ・文量の「青い鳥文庫」という小説
何百ページもあるような、厚みのあるシリーズものの小説冊子

図書館にこもりきりになるくらい、そして、「本読みすぎ!!もう授業始まるよ!!」先生方に心配されてしまうくらい、幅広いジャンルの本を夢中で読んでいた。


なんでだったっけ?
ハッキリは覚えていないけど、ワクワクがとにかく止まらなかったかな。


有名なものだと、『怪談レストラン』シリーズや、『獣の奏者エリン』シリーズ、西尾維新さん著の『物語シリーズ』とか。


怪談レストランシリーズ。何回も読んだ。
ハードブック。現在は小説も出ているそう。めちゃ長い。
ただでさえ内容が濃いのに加え、2段組なので文字数がとんでもない。


インターネットという沼にハマるより前に、とにかくたくさんの文字に触れ、ステキな表現に触れ、時に型破りの文章に触れていたおかげで、あまり抵抗なく、活字の並んだ記事も読むことができるようになった。


小さい頃の僕、ありがとう。


でも世の中には、僕みたいな図書館の虫じゃない人も当然いる。
というか、そういう人がほとんどではないだろうか。


活字がズラーーーーーと並んだ文庫本や、ハードブックを読むのが苦手な人は多いと思うし、


今、この記事を書いているNoteや、個人・企業が運営しているブログでさえ「読むのがおっくうだなぁ。」と感じる人もいるだろう。


彼らの言い分はこんな感じ。

何百ページの文章を読むくらいなら、YouTubeで解説動画を見た方が、スピードだけでいったら圧倒的に早い。

文字量に圧倒されて、文章の羅列を見るだけで、目も心も疲れてしまう。

ただ「理解する必要がある」ことしか並んでいないみたいで、
なんだか無機質。

一言で言うと、「なんか疲れる」ってこと。


普段から生きているだけで、たくさんの情報を受け取っているのに、わざわざ自分から疲れに行く必要はない。


どうせ、文章なんて事実の羅列でしかないし。
読まなくても理解する手段は、たくさんあるんだから。


ということらしい。


だけど、ちょっと待ってほしい。
一つだけ、どうしても気になることがある。


「文章 = 疲れる」「文章= 事実の羅列でしかない」
というイメージは本当に正しいの?


文章に感情を持ち込むな、と言う思い込み


いや、そんなことはない。


小説やエッセイなど、感情あふれた文章だってあるよ。


文章を読んで気持ちが楽になることや、奮い立たされることだって、世の中探してみればごまんとあるはず。


じゃあなんで、そんなイメージが強いのだろう??


要素は一つだけじゃないと思うけど、僕の考えはこうだ。


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普段の日常では、「『感情のない文章』から受け取る情報の割合」が
圧倒的に多くなっている。


・相手に素早く伝えるための、ビジネス的な文章
・事実をただ事実のまま伝える、メディアの文章
・短文で、要件だけ伝えるチャットコミュニケーション


どこでも情報を発信し、受け取ることができるようになった反面で、自分の意図や感情が抜け落ちた文章を見ることが「あたりまえ」になっている。


結果、多くの人にこんな思い込みができているのではないか。


「文章には感情を持ち込んではいけない。」
淡々と、コツコツと事実を積み上げて論理的に書いたほうが良い。


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これが僕の今の所の考え。
仮説でしかないけど、そこまで的外れではないんじゃないかな?



今も昔も、小説やエッセイを書く人はたくさんいる。
僕のように、記事を書く人もたくさんいる。


発信できる場所が増えてきた分、公開されている文章の数だけでいったら、昔よりも今の方が多いだろう。


けれど、この思い込みの影響で「感情がこもっている」「やさしく、感情を動かしてくれる」文章をかける人はそこまでいないんじゃないかと思う。


他ならぬ、これまでの僕自身もそうだった。


本を読むのが好きで、感情のこもった本も、事実を書き連ねたような本も好き嫌いせず読んできた僕も、思い込みの影響を強く受けていた。


いや、人一倍文章に触れていたからこそかもしれない。

——— 感情を込めようとしてもうまく書けない。
——— 文章は書けるのに、論理が強く、人情味のない文章になる。
——— 相手に楽しく呼んでもらえている気がしない。


悔しい。けれどどうしようもない。
何か、解決できる手段はないのか?


とにかく記事を書くしかないのか?


先の見えない闇の中で
答えを見つけてひたすら筆を進めている感覚だった。


僕の思い込みが消えたのは、感情を思い切り言葉にしている人に、偶然出会い、相談する機会をもらえたからだ。

「なんかすごそうだけど、何いってるかわからない」
「もっとシンプルに、伝わるように書いた方がいい。」

正面からガツーーン!!とハンマーで殴られたくらいの衝撃を受けた。
そのかたの記事を読んでみると、なんと!驚くほどスッと入ってくる。


一番驚いたのは、そして気づきを得たのは、
「その人の感情・心の声がそのまま文字として書かれている」こと!!


「〇〇と思った」とかじゃなくて。


記事を読んでいる人に声をかけたり、一緒に話をしているかのような口調そのままの言葉が、文章になっている。


自分がやりたいのはこれかもな!!と直感的に感じた。


感情を文章で伝える。話すように書く。


文章はもっと自由だ!!!


うん、きっとそう。


「書き言葉」と「話し言葉」なんていう区分があるから、あたかも2つは混じり合っちゃいけないように思えるけれど、そんなことはないんよね。


話すように書いたっていいし、書くように話したっていい。


卒業論文ならまだしも、個人の発信でそれをやっても誰かに怒られるなんてことはないない。心配のしすぎってもんだ。


むしろ適量で混ぜたほうが、その人の個性や人となり、感情を捉えやすいし
読んでいて「ワクワクする!楽しい!」ってなると思う。


これからの「個」が重視される時代では、いかに「ありのままの姿や感情をさらけだしていくか」が一つの鍵になってくるはず。


その意味で、「論理」って型を守りながらも「感情」を出して両方のいいとこ取りを狙っていくのは、割と当然の流れではあるのかなっていう感じ。


時代はハイブリット型だ!!
なんてね。


だから改めて伝えたい。


文章って、真面目にコツコツ書くだけじゃない。
もっと「わーい!!」って思い切り感情を叫んでもいいんだ。


「文章に感情を持ち込むな」と言う思い込みは、まだまだ多くの人が持っているとは思うし、それに気づくのは簡単じゃない。


けど、一度気付いて自分に許可さえ出せれば、自分の表現の幅は一気に広がるんじゃないかな、と思う。


情報化社会がさらに加速し、AIの発達も目覚ましい今だからこそ、
人の感情がこもった文章を書く人、それを受け取る人が増えてほしい。


この記事も誰かの気づきのきっかけになればいいな〜〜!!


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