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「梅雨の女王」〜誰かのためのバー山神

「でさぁ、ねぇ、聞いてる朋子」

「うん、聞いてるよ。大丈夫」

 親友の美奈子からの電話。もう同じ話が5回目だ。わかるよ、もう限界なんだよねみんな。


 パンデミックからまる一年、のらりくらりとやりすごしてきたが、ここ数ヶ月は外でお酒も飲めなくなった。会社を休むリスクを考えると誰かと気軽に会うこともできない。一次流行ったリモート飲みも一回やったけれど、ちっとも楽しくなくて、一回でやめた。

「人間はどこまで行ったって、所詮は動物なのよ。誰かと直接会わないと駄目なのよ。あ、朋子、今度は梅雨入りだって。やんなっちゃう。もう6月か…」

「ほんとだね。あ、ごめん美奈子、お母さんから電話だ。今日は切るね」

「あ、うん。じゃまたね」 

 ごめんね美奈子。私だって限界なのよ。

 切ったそばからSNSを見てしまう自分に苦笑しながらも、何度か行ったことのあるバー『山上』のマスターが、裏人気メニューの半熟目玉焼きのせナポリタンのパスタの写真をアップしていた。
 

 わ、何これ美味しそう! 最近部屋で独り言を言うようになった。女は寂しさに強いと言われるけれど、やっぱり寂しいのかしら。
 

 広尾か。そう遠くないし、たまには一人で行っちゃおうかな。

 気さくなマスターの顔が浮かぶ。大丈夫、きっと暖かく迎えてくれるはず。早めに行けば良いよね。梅雨こそ、バーに行くべきよ。自分に言い聞かせ、私は重い腰を上げて家を出た。


 なんだ、雨もたいしたことないじゃない。皆外に出ない言い訳に使いたいだけ。私もずっとそうだった。
 

 タクシー乗っちゃおう。

 たまには優雅に、タクシーに乗る。あっという間に店についた。なんだ、タクシー代も、かかった時間も、たいしたことないじゃない。行動してみるものね。これまた自分に言い聞かせる。

 
「いらっしゃいませ。朋子さん、お久しぶりでございます」

「え、覚えててくれたんですか」

「勿論ですよ。朋子さんなら、いつでも大歓迎です」 

 一、ニ度しか行ってないのにマスターはちゃんと覚えててくれた。こういうのが堪らなく嬉しい。思い切って行動した甲斐があった。


「一杯目はどういたしましょう」

「今日、たまたまマスターのアップしたSNSを見たんです」

「特製ナポリタンですか?」

「はい。それが食べたくなって」

「嬉しいな。では、特製ナポリタンと、お飲みものは?」

「そうねぇ、ナポリタンに合うもの。ある?」

「生姜の効いたフレッシュグレープフルーツサワーなんていかがですか?」

「何それ、美味しそう!それにする!」

「畏まりました」 

 このうやうやしさがイイ。やっぱり来て良かった。私だって、たまには会話の主導権を握りたい。これで素敵な彼氏と一緒だったら尚イイんだけど…そこまでは贅沢過ぎか。

「お待たせしました。生姜の効いたフレッシュグレープフルーツサワーです」

「いや〜ん、美味しそう!」

 目の前にうやうやしく出された美しいイエローのサワーは、薄暗い店内のスポットライトの下、炭酸がキラキラした輝きを放つ。私はそれを待ってましたとばかりに一気に煽る。

「くー、冷た!美味し〜!」

 私の美味しそうな顔を見て、微笑むマスター。最高の居心地。なんでもっと早く来なかったんだろう。こんな単純なことで、自然に笑えてしまう。久しぶりの幸せな時間。
 しかたない、可哀想だから次は美奈子も誘ってあげよう。きっとすぐファンになっちゃうだろう。こんな執事みたいなマスターがいるバー、他にないもの。

「お待たせいたしました。目玉焼き載せ特製ナポリタンです」

「うわ、なにこれ!やばーい!」

「美味しいですよ。朋子さんには特別に特製のタバスコもご用意しました」

「それさっきあっちのカウンターに置いてあったやつでしょ」

「はははは、バレましたか」

 なに、この平和な時間は。そして、破られるのを心待ちにしているかのように揺れるフワトロの黄身。夜にこのビジュアルは犯罪だ。
 やっぱり、美奈子にはまだ内緒にしよう。

 梅雨の間、この女王の椅子には、私が君臨するのだ。


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