鬼が哭く鬼ヶ島

高瀬 甚太

 木曜日の夕方遅く、私の元に郵便が届いた。
丁寧に閉じられた水色の封筒の宛名文字、『山下正さま』に見覚えがあり、差出人名を見ると、四箇田裕子の名が記されていた。
 封筒を開けるとラベンダーの強い香りが鼻を射た。ラベンダーの香りには、自律神経を整える効果があると、以前、イングリッシュラベンダーの花を飾った部屋の中で裕子が語っていたことをふと思い出した。
 二枚の便箋にびっしりと、裕子の几帳面な裕子の性格を表すように、丁寧な文字が並んでいた。
 前略――から始まる手紙の文章は、私への気遣いと思いやりに満ちた、裕子らしいものだった。他人行儀な文章になっているのは仕方のないことだった。別れてもう三年にもなる。
 儀礼的な文章が続いた手紙の最後に、唐突に『鬼が島へ一緒に行きたい。一週間以内に連絡ください。お待ちしています』と書かれていた。
 ――鬼が島?
 別れてから丸三年、この間、ほとんど音信不通でいた。彼女の記憶が日を追って消滅して行く、そんな折だったから、突然届いた手紙に驚いたが、『鬼が島へ行きたい』と記されていたことになお驚かされた。
 三年前、私は彼女に手痛い失恋をしている。私を振ったのは彼女の方だったはずだ。それなのになぜ今頃――。疑念が先に立ったが、返事を書かないわけにはいかなかった。

 四箇田裕子と出会ったのは、五年も前のことになる。その頃、私は、コピー機を取り扱う会社に勤務していた。コピー機の営業販売と同時に、納品先のコピー機が故障をした場合の修理・メンテナンスも同時に行っていた。裕子が勤務していた医科大病院にも修理やメンテナンスなどで始終出入りしており、研究室の職員として勤務していた裕子と、私はそこで出会った。
 研究室のコピー機を取り換えることになり、担当の私がその説明に窺った時、対応した研究室の担当職員が裕子だった。
 私より二歳年齢が上の裕子は、黒縁の眼鏡と長い黒髪が印象的な、いかにも医大の研究室職員といった女性だった。最初のうちこそ知的な風貌が災いして、とっつきにくい印象を持ったが、話してみると意外に気さくで、朗らかな女性だった。私とも波長が合い、短期間で食事や酒を呑む間柄になった。
 肉体関係を結んだのは半年後のことで、その頃には、私と裕子は院内でも公然の仲になっていた。
私が三〇歳、裕子が三二歳であったことから、当然の成り行きとして私たちは結婚を視野に入れていた。夫婦同然の関係ということもあり、私は頻繁に裕子の マンションを訪れるようになっていた。彼女はそのたびごとに手料理を振る舞いご馳走してくれた。裕子のつくる料理は、日本の家庭料理というよりもエスニック系のものが多かった。
 キッチンに立つ彼女を時々覗き見しているうちに、彼女が包丁の類を一切使わないことに気が付いた。キッチンにも刃物の類は一切置いていなかった。野菜や肉を切る時、どうしていたのか。不思議に思って、一度だけ彼女に、なぜ、包丁を使わないのか、尋ねたことがある。その時、彼女は、小さな笑みを漏らして、
 「刃物は苦手なの」とだけ言った。
 彼女がなぜ包丁を苦手としているのか、それを教えてくれたのは、研究室で彼女と同僚の二宮亜咲だった。
 その日、裕子は出張で留守にしていた。研究室へメンテナンスに訪れると、出張中の裕子に代わって二宮が対応した。
 二宮は裕子と同期の話し好きの女性だった。私が裕子と交際していることはもちろん彼女も熟知していた。それもあって、私は二宮に気安く裕子のことを尋ねた。
 「料理をつくる時、四箇田さん、刃物を使わないのですよ。キッチンにも刃物の類は一切置いていなかった。どうしてでしょうね」
 私の質問に二宮は、「それはね」と声を潜めて答えた。
 「四箇田さんは元々、将来を嘱望された優秀な外科医でした。四箇田さんぐらいじゃないですか、二十代の若さで幾人もの患者の執刀を手掛けたのは……。ベテラン医師も舌を巻くほどの天才的な技術を持っていて、普通の外科医が敬遠する難手術も簡単にやってのけるほどの名医――。それがある手術がきっかけでメスが握れなくなってしまい、外科医を廃業して、研究室の職員に転身したのです。四箇田さんの才能を惜しむ人はたくさんいましたが、彼女はそれ以来、メスどころか、刃物の類は一切、手にしなくなったんです」
 彼女が外科医? 初耳だった。そんなこと彼女から一度も聞かされたことがない。それにしても、彼女が外科医をやめるきっかけになった手術とは一体どんな手術だったのか。二宮に尋ねたが、彼女は口を濁してはっきりと答えてくれなかった。

 東京への三日間の出張を終えた彼女の帰阪を待ちかねて、私は彼女に問いただした。
 自分の女房になる女だ。どんなことでも知っておきたい。いや、知る権利があると思っていた私は、外科医をやめた理由、そのきっかけになった手術について、その夜、聞いた。
 しかし、彼女は何も語らなかった。疲れているからと言って、私を部屋から追い出し、電話をしても出なかった。
 彼女が私を避けるようになったのは、その夜からのことだ。研究室に行っても私と顔を合わそうとせず、コピー機の担当がいつの間にか二宮に代わっていた。
 電話をしても出ず、仕方なく私はストーカーまがいに彼女の住むマンションの前で待ち伏せをし、仕事帰りの彼女を追ったこともあったが、彼女は、けんもほろろな態度でまったく私を相手にしなくなった。
 そんなことがあって半月後のことだ。いつものように点検のために研究室を訪れた私は、担当の二宮から意外な話を聞かされた。
 「四箇田さん、突然、退職されたのですよ。知ってます?」
 寝耳に水の話に、私は驚きを隠せなかった。
 「やっぱり知らなかったのですね。先週、突然、室長に退職届を提出して、一昨日、ここをやめたのですよ」
 退職した――。あの日以来、彼女とは口も利いていない。それどころか会ってもいない。なぜ、彼女が私を避けるのか、いったい何が原因なのか、それすら知らされないまま、疎遠になってしまった。せめて理由さえわかれば納得できるが、それもなく、いきなり私を避けるようになったのだ。しかも私に一言もなく退職してしまった。
 「四箇田さん、実家へ帰るのだと言っていました。両親の介護のためと言っていたけど、あまりにも唐突で研究室の人たち全員、驚いていましたよ。私たち、てっきり、山下さんとの仲が駄目になって、そのショックで退職という行動に出たのではないかと噂していたんですよ」
 二宮がそう思うのも無理はなかった。私と裕子の仲は公然の仲であったし、当然、結婚するものと誰もが信じていた。あの日以来、裕子が私を避けるような態度を取り始めたことを、研究室の人たちの多くが私との仲がこじれ、別れたのではと勘繰ったに違いない。
 実際には、私が失恋したのだが、それにしても裕子が退職するとは思いもよらなかった。
 結局、すべてが曖昧模糊のまま、彼女は私の前から突然消えた。彼女が私に残した傷跡は決して浅くなかった。以来、私は、深刻な女性不信に陥ってしまった。

 三年の月日を経て届いた裕子からの手紙に、戸惑いを隠せないまま、私は返事を書いた。
 ――突然の手紙に驚きました。まさか今頃になってあなたから手紙が届くなど夢にも思っていませんでした。
 あなたとの別れが唐突だったことから、あの時、私はずいぶん悩みました。今も深く傷ついています。せめて理由がわかればと思ってきましたが、思い当たることがなく、自分が悪かったのではないかと、今も自身への攻撃に終始しています。
 鬼が島へ一緒に、と書かれていましたが、理由は聞きません。もう一度、あなたと会って、あなたが私を避けるようになった理由をはっきりと聞かせていただけるのであれば、私はどこへでもお伺いします。場所と時間をお知らせください――。
 その日のうちに返信した。裕子の住所は徳島県になっていた。裕子の実家だ。退職理由にあったように、裕子はやはり実家に戻り、両親の介護をしていたのだろうか――。

 裕子の手紙に書かれていた「鬼が島」の存在を私は知らない。おとぎ話に登場する、そんな島が本当に存在するのか。疑問に思った私は、ネットで検索してみた。すると、鬼が島の名称でヒットしたのが香川県高松市、高松港から東へ約4kmの海上にある女木島だった。
そんな島に、裕子が何の目的で私を連れて行こうとしているのか、まるで見当がつかなかった。
 裕子から返事が届いたのは、私が封書を送付して一週間後のことだ。
イングリッシュラベンダーの香りが漂う封書を開けると、一枚の便箋に、
――五月十五日金曜日、午前十一時、高松港でお待ちしています。
とだけ記されていた。
 五月十五日といえば、五日後のことだ。早速、私は社に報告をし、その日、有給休暇を取らせてもらえるようお願いをした。
 三年前、裕子が退職してしばらくして私も会社を退職した。現在の会社は退職して三社目の会社だ。裕子の件が尾を引いて、すっかり退職癖がついてしまった。
 ただ一度の失恋が私から自信を根こそぎ奪い、生きる自信すら奪おうとしていた。それほど私にとって裕子との別れはショックな事件であったのだ。

 鬼が島こと女木島の歴史は古い。鎌倉時代は四国本土の豪族、香西氏の領地として、室町時代末期から江戸時代初期までは香西氏の一族、直島の高原氏の所有地となっていたが、江戸時代の寛文12年に幕府の直轄地、すなわち天領となった地である。
 天領の時代は、備中松山藩領地、倉敷代官所支配、大坂城代支配、高松藩預地といった具合に支配者が次々と変わったが、幕末に至って備中倉敷代官の支配下にあり、明治維新後の廃藩置県によって香川県香川郡に編入された。
 鬼が島の由来は、香川県の桃太郎伝説に起因する。桃太郎のモデルである稚武彦命(わかたけひこのみこと)が吉備の国から讃岐の国を訪れた時、土地の住民が鬼の出没で苦しんでいるのを知り、イヌ、サル、キジを率いて鬼征伐を行ったという言い伝えから来ている。その鬼が棲んでいたと言われるのが女木島というわけだ。

 五月十五日快晴の朝、私は高松港に到着した。女木島へは、運航船『ぬおん2号』に乗ると20分ほどで着く。瀬戸内の穏やかな初夏の風が心地よく頬を撫でて行く。ゴールデンウィークを過ぎたばかりで、金曜日の平日ということもあるのだろう、港内は閑散として人が少なかった。
 約束の午前十一時になったが、裕子は現れなかった。十五分ほど経過した時、椅子に座ってぼんやりしていた私の肩をポンと叩いたものがいた。
イングリッシュラベンダーの香りがしたので、てっきり裕子だと思い、振り返ったが、そこには誰もいなかった。すると、しばらくしてアナウンスが流れた。
 ――山下正さま、山下正さま。お連れ様が女木島でお待ちです。『ぬおん2号』に乗船して女木島へ向かってください。お連れ様が女木島桟橋でお待ちしています。
 そう言えば、裕子に私の新しい携帯のアドレスを教えていなかった。裕子もまたアドレスを変えたのだろう。連絡しても通じなかった。私はアナウンスに従って急いで船に飛び乗った。
 瀬戸内海の穏やかな気候と同様に海上もまた穏やかだった。港を出てしばらくすると、東の海上に女木島が鮮明に見えてくる。高松の空気と少し違って感じるのは晴れた天候のせいだろうか。島に近付くにつれて、より温暖な気候になってくる。
 女木島桟橋に到着すると、乗船していた十数人いた客のほとんどが下船した。船の上から眺めた時も、下船して桟橋に立った時も、裕子の姿をどこにも見つけることができなかった。
 女木島で下船した人たちを待ち受けるように鬼が島大洞窟に向かうバスが待っている。周辺を見わたすが、やはり裕子はいない。高松港のアナウンスでは、女木島桟橋で待っていると言っていた。どうしたものかと思案した。乗客はすでにバスに乗り込んでいる。
 その時、どこからともなく一陣の風が吹いて、それと同時に声が聞こえた。
 「バスに乗りましょう。バスに乗って大洞窟の入り口に向かいましょう」
風に押されるようにしてバスに向かった。気のせいだったのか、裕子の声がしたような気がしたが、客はすべてバスに乗車していて、誰も存在しない。バスに乗っていいのかどうか、迷ったが、乗車すると、バスは私の乗車を待ちかねたように発車した。
 ――いったい裕子はどうしたのだろう。なぜ、私の前に姿を現さない。
バスの中の乗客を見回したが、裕子はいない。幼児を連れた親子連れの客が目立って多かった。
 大洞窟に到着した。この大洞窟は、大正三年に香川県の郷土史家、橋本仙太郎によって発見された洞窟を、昭和十年に鬼が島として公開したもので、入口から出口まで延長約四〇〇m、面積約四〇〇〇㎡を誇る要塞型の洞窟としてよく知られている。
 私は鬼が島観光のためにやって来たわけではない。裕子の手紙に誘われて、裕子に会うためにこの地にやって来た。だが、約束した高松港にも、アナウンスされた女木島桟橋にも裕子は存在しなかった。
 ――なぜだ?
 洞窟の直上は鷲ヶ峰の山頂で、360度の多島海を眺める展望のいい場所になっている。乗船した客たちは、揃って洞窟に入り、その後、山頂で景色を見る。私は思案しながら洞窟の入り口に立っていた。
 バスを降りた時から感じていた悪寒が、洞窟の前に立って、より一層ひどくなった。
 この悪寒は、体調を崩しての悪寒ではなかった。何か得体の知れないものが私の身体に襲いかかってくるような、そんな悪寒であった。
 何者かに引き込まれるようにして洞窟の中へ入って行った。バスの乗客たちはすでに先に進んでいる。洞窟の玄関は、左右二本の柱に支えられている。入口の天井は低く、道が狭い。まるで迷路のような造りだ。先ほどまで聞こえていた観光客の声がいつの間にか聞こえなくなっていた。異様なほどに静まり返った洞窟の中で私は、途方に暮れた旅人のように洞窟を巡っていた。
 行き止まりのようになった場所の下に、穴が掘られている。穴の前に石の扉がある。昔、鬼が金、銀、財宝を隠した宝庫と呼ばれる場所だ。続いて鬼の力水という場所に出る、洞窟内で唯一の水源地だ。以前はこの辺り一帯に湧き水が溜まっていたというが、現在は、地下から湧き出た水ではなく、雨の水が溜まった水たまりのようなものがあるだけだ。
 悪寒がさらにひどくなってきた。体が何者かに捕らわれたかのように足も腕も自由が利かない。それでも何かに操られるようにして私はゆっくりと歩を進めた。
 中間辺りまで来ると、大黒柱がある。昔、鬼が宴会をしていたと言われている場所だ。
 立ち止まると、不意に声が聞こえた。
 ――山下さん。
 裕子の声だった。周囲を見渡し、裕子の姿を追った。だが、裕子はどこにもいなかった。
 「裕子、どこにいる? 隠れていないで出て来てくれ」
 大声で叫んだが、その声は洞窟の壁に当たり、空しく反響するだけだった。
 ――助けて! 山下さん!!
 再び裕子の声が聞こえた。声のした方向へ向かおうとした。だが、足が思うように動かない。それでも必死になって前へ前へと進んだ。
 石仏のある仏間を過ぎ、鬼が島天満宮の祭神を祀る場所を過ぎると、監禁室と言われる場所に出る。鬼たちが婦女子を監禁した部屋と言われている場所だ。
 監禁室に人がいた。しかも女性だ。その女性の顔を見て驚いた。
 「裕子!」
 どういうわけか、その監禁室に裕子が囚われていた。洞窟を巡った人たちは、誰も裕子の存在に気が付かなかったのだろうか。
 ――山下さん。
 「裕子、どうしてこんなところに――?」
 ――山下さん、助けて。
 以前とまるで変らない裕子がそこにいて、私に助けを求めていた。なぜ、こんなところに裕子が……。助け出そうと手を伸ばすと、その手を裕子がしっかりと掴んだ。驚いて裕子を見ると、みるみるうちに表情が変わって行く。
 その瞬間、裕子を見て思った。
 鬼だ――。
 鬼に変身した裕子が私の手を掴んだままゆっくりと立ち上がる。
 ――あの時、なぜ、あんなことを聞いたの? あなたがあんなことさえ聞かなければ、すべてうまく行っていたのに。
 私は裕子が何を言っているのか、言おうとしているのか、恐怖が先に立って理解できなかった。腕を掴まれたまま、私は鬼に変わった裕子に恐れをなし、必死になってその場から逃げようとした。裕子はなおも話し続けた。
 ――外科医をなぜやめたのか。あなたは私にそう尋ねたわよね。教えてあげましょうか。その理由を。
 ――そうだった。その時、私はあの時のことを思い出した。
 私が裕子に、なぜ外科医をやめたのか、聞いた、その瞬間から、裕子は私を避けるようになった。
 ――聞きたい、その理由を聞きたい。
 声にならない声を振り絞って私は言った。裕子は落ち着いた声でなおも私に話す。
 ――心臓バイパス手術の時だったわ。手術用のベッドに横たわる患者をみて私は震えた。その患者は、以前、私が大学時代に交際していた男だった。私を騙し、私に辛い仕打ちを与え、私を死の淵に陥れた男だった。とても偶然とは思えなかった。憎んであまりあるその男の剥きだしになった心臓が私を挑発するように、私をあざ笑っていた。
 私にしてみれば、何でもないバイパス手術だったけれど、私はその男の心臓にメスを入れ、わざとその手術を失敗させた。もちろん、その男は亡くなったわ。快感だったわ。周囲は、天才外科医と言われた私のあまりにも初歩的なミスに驚きを隠せなかった。
 手術に失敗した私は、その日を最後に外科医から研究室の職員に転職した。周囲は私を慰め、再びメスを握るよう応援した。だけど、私はもう外科医に戻る気はなかった。
 人を殺す快感を一度でも味わうと、二度、三度と味わいたくなる。
私はその欲望を止めることができない人間だと悟った。だから、逃げた。部屋の中に刃物がなかったのもそういう理由よ。刃物を持てば、多分、私はまた殺人を犯したくなる。その衝動に駆られると、自分を制止することができなくなる。
 私はあなたを愛したわ。あなたは以前の男のように不誠実な男ではなかった。やさしくて私を心底愛してくれた。だから私は幸せだった。それなのにあなたは、『なぜ、外科医を廃業したのか』、と聞いた。その瞬間、忘れかけていた人を殺す快感が再びよみがえってきたの。
 私はあなたを殺したくなかった。愛していたから――。
 だから私はあなたを避けた。その代わりに行きずりの男を誰にもわからないように殺害し、その死体を隠した。数人の男を殺害したわ。そうすると不思議に落ち着いた。
 快感に酔いしれた私だったけれど、ふと現実に戻ると激しい罪の意識にさいなまされた。
 罪の意識に耐え切れず、あなたには何も告げず、私は退職し実家へ戻った。でも、実家へ戻ると、台所に包丁が置いてあり、納屋には鉈が置いてあった。殺人の衝動に駆られると、私はどうしようもなくなった。
 祖父母を殺し、両親を殺し、家の人間すべてを殺害した私は、自らの命を絶つために自殺を考えた。でも、殺人は簡単に出来るのに、いざ、自殺を試みようと思うと躊躇した。
 そんな時、私はあなたを思い出した。あなたの愛を思い出したの。山下さんと共に死ねたら……。そう思ってあなたに手紙を書いた。
 私の腕を握る裕子の握力がさらに強くなった。裕子はもう裕子ではなかった。心も体も鬼に変身していた。
 絶望的な気分で目を瞑った。逃げられない。そう思い、体をすくませ防御しようとした。
 その瞬間、腕を掴んでいた裕子の手の握力が突然、萎えた。閉じていた目を開けると、鬼ではない裕子がそこにいた。
 「この島を選んだのは、徳島生まれの私にとって思い出の場所だったから――。幼い頃、両親と一緒にこの島を訪れたことがあった。その時の思い出が鮮烈だった。桃太郎伝説と言うよりも私にとって『鬼が棲んでいた島』の印象が強く残った。その時から多分、私は私の内部に棲む鬼の存在に気付いていたのかも知れない。私を捨てた男への憎悪から火が点いたとはいえ、そのことをきっかけに私の中の鬼が覚醒した。それでもまだ、私の内部で善と悪が闘っていた。外科医から研究室の職員となった私は、内部の鬼を鎮めるために葛藤を繰り返していたわ。あなたに出会って、ようやく私は普通の女に戻れると思った。だけど、あなたの不用意な質問が私の中の鬼を再び覚醒させた――」
 裕子の目が私を見つめていた。その目は、怒りでもなく憎悪でもなく、優しい以前の裕子の眼差しだった。
 「罪を犯せば必ず罰が当たる。そのことを子どもの頃から祖父や両親に言い聞かされてきた。私は数々の罪を犯して来た。必ず罰が下る。そう思っていたら、やはりそうだった。
 両親を殺害し、あなたと共に死のうと思い、手紙を書いた翌日、私は高松港の桟橋に到着した。少し早めにやって来たのは、両親を殺害したことがすぐにばれてしまうと思ったから。鬼が島へあなたを誘い、あなたを殺して私も死ぬつもりでいた。だって一人で死ぬのは寂しいもの――。
でも、心の中に鬼が棲んでいるのは私一人だけじゃなかった。夜、港を歩いていた時、私のバッグを奪おうと近づいてきた男がいた。奪われまいと抵抗すると、男はナイフを私の胸に突き刺した。何が起こったのか、最初はわからなかった。男の逃げる姿を目で追いかけるうちに鮮血がお腹から噴き出した。
 ――鬼が死んだ。
 その時、そう思ったわ。噴き出る鮮血と共に私の中の鬼が逃げて行くのが見えたの。
 私の腕から手を放した裕子が私を見てニッコリ笑った。
 ――裕子!
 声を限りに叫んだ。だが、次の瞬間、私は倒れた。頭が真っ白になり、そのまま洞窟の中で倒れてしまった。
 気が付くと、洞窟入口近くの売店の中で横たわっていた。バスの運転手が私に尋ねた。
 「大丈夫ですか? びっくりしましたよ。洞窟の中で倒れているのを見た時は……。どうですか、気分は?」
 身体を起こし、周囲を見渡した。少し頭が痛いぐらいで、どうということはないように思えた。立ち上がった私は、運転手に聞いた。
 「女の人はいませんでしたか?」
 怪訝な表情で運転手が首を捻る。
 「女の人? どんな女の人ですか」
 「髪の毛の長い、黒い服を着た三十過ぎの女性です」
 「――いませんでしたよ。倒れていた場所には誰も、でも……」
 「でも……?」
 「つい先ほど、この島の岸壁に女性の死体が打ち上がって大騒ぎしていたんですよ。その死体の女性も長い黒髪、黒い服を着ていました」
 ――裕子だ。裕子に違いない。そう思った。
 「とにかく、船が出るまでもう少し時間があります。もう少し休んでいてください。時間になったらお知らせしますから」
 そう言って運転手は去った。放心した思いで私は椅子に腰をかけていた。すべては幻だったのか。鬼に変身した裕子、あれは夢だったのか――。
 頭を抱える私の視線の先に、休憩中の売店の売り子の姿が見えた。果物でも剥いているのだろうか。果物ナイフが手元で光っている。そのナイフを見た瞬間、私の中で激しい動悸が起きた。私の内部を激しく突き上げてくるものがあった――。
 ゆっくりと立ち上がった私は、売り子に向かって歩を進めた。
 「鬼――!?」
 売り子が私を見て叫んだ。
 ――何を言っている。誰が鬼だ? 私がか? 私は鬼じゃない。ただ、そのナイフが欲しいだけだ。
 その瞬間、身体の内部から喉を突き破るようにして手が突き出た。その突き出た手が売り子からナイフを奪い二度、三度と売り子を突き刺す。
 ――快感だ。
 私の内部の声が雄叫びを上げていた。
〈了〉

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