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宮崎駿「君たちはどう生きるか」感想✏️

最近、確信を得たこと。
明言として遅いとは思うけど、極端な見方には気を付けている。だからこそ避けてきた明言でもある

しかし、あのバイデンという男。間違いなくジョージ・ブッシュと同等もしくはそれ以上の”戦争好き”だ。
世界秩序の不均衡を好んで創り出し、不破と憎しみの連鎖を利用して多大な益を貪り食う、餓鬼そのものである。

NATOが東京に支部を置くという話でまた一部がざわついていたが、フランスの反対でその案はなくなったようだ。
まず、NATOを我が物顔で便利道具扱いする今の米国政府にしっぺ返しを食らわせたのは大事なこと。敗戦による事実上の米国植民地である日本には絶対にできない挙動だ。

一部の右派が残念がりフランスを憎むだろうが、馬鹿な話だ。
そもそもNATOは”軍事同盟”。つまり自衛隊ではNATOに入れない。
故に「NATOが日本を守ってくれる」という期待は妄言の極みだ。

米国は自衛隊を国軍化し米国からの武器の購入を推進すると共に米国の手足として使いたい。
安倍死後も力を持っている宗教右派は”日本の自立”を建前に軍事というオモチャを欲しがる子供である。

つまりは双方のニーズは一致しているが、国連の「敵国条項」は生きている。
まず日本が国軍を持つだけでoutだが、あまつさえNATO入りなど目論めば、中国が日本を攻撃する真っ当な正当性を発揮してしまう。

無論、米国も宗教右派も大喜びで戦争したいだろうが、いつも死ぬのは一般市民だ。
代理戦争でボロボロになっているウクライナ、そしてロシアを真に自分事として正しく観察しなければならない点はここにある。

さて、ここで政治社会にまったく関係ないと勘違いしている大多数の”国民”に問いたい。

「君たちはどう生きるか」


7月17日にスタジオジブリの最新作「君たちはどう生きるか」を観てきた。
おそらく本当に宮崎駿監督の生涯最後になるのではないかと思われる、”芸術作品”のフレッシュな感想を以下にメモしておく。
原作を読んでいない感想であること、あくまで個人的な解釈であることを前提とする。

巷では評価は真っ二つだそうだ。後ろの座席に座っていたファミリーも「わけが分からない」と家族揃って不平たらたらだった。

まず私なりに整理すると、キーワードは三つ。「世界秩序」「人間存在」「無垢」だ。

内容は終始複合的なメタファーに溢れ抽象性が高いものだった。故に私はもはやエンターテイメントとしての映画ではなく、現代アートとして捉えていた。
まさに巷で「難解」と言われる所以であると思う。

しかし一方で「風立ちぬ」制作の際に「アニメは子供が観るもの」と難色を示した宮崎駿とは矛盾するようにも見える。
とはいえ、それこそ子供のようにフラットに捉えてみれば、確かに「不思議の国のアリス」のように「ある日突然異世界に迷い込んであれこれワンダーな経験をして帰ってきた話」としても捉えられることに気付かされる。後に大人の目線で深掘りできる点というのも、まさに「不思議の国のアリス」のようだ。

さて、基本構造は現実世界と異世界とがパラレルなものとなっていて、異世界は生と死、時空が渾然一体となった世界である。大元は大叔父が漠とした宇宙に創造したものだが、完全に”呆けた男の創造世界”と言い捨てることはできない。なぜならそれは巧妙に現実世界との相互干渉性を持っているからだ。

それは異世界へ到着して程なくしてからの主人公本人の言葉からも分かる。
異世界でいきなり会った、主人公が知る婆とは似ても似付かぬ精悍な女漁師が、共に異世界へ落ちた婆であるとすぐに喝破したのは、現実世界とのリンクに気付いていたからだった。

目覚めた彼の傍らには、現実世界で彼を心配するその他婆の木人形たちが静かに彼を見守っていた。
その中に、息子の安否をとても心配し不穏な場所への探検も辞さない勇敢な父の姿が見当たらないのは、兵器製造でしこたま儲ける彼の人間性が前出の「無垢」に抵触するからだろう。

これは予想でしかないが、彼の息子たちは主人公の少年を残して戦死しており、あれほど必死に心配したのは”跡取り”としての息子を心配した部分もあったのではないか。
だとすれば、益々「無垢」からは遠ざかる。

もう一点、主人公が「上から落ちてきた」と明確に認識しているところもおもしろい。
彼がここまで異世界への順応性が高いのは、まさに”血筋”故のことなのだろう。
血筋が異世界の世界秩序を担っているのは、ある意味、天皇に代表されるような”一族”のメタファーか。

また「アニメは子供のもの」という視点から見れば、「実は〇〇の一族だった!」というのは子供が好きなファンタジーの伝統だ。
あくまでも子供が見るものとして単純に引き込む仕掛けもあるのが、逆に理解の難解さに寄与している。たとえば”命”の源がやたらとかわいいキャラだとか。

その命の源たる原始生命が”天”たる現実世界へと舞い上がる途上でペリカンに貪られ阻まれるシーンは珊瑚の産卵とジンベイザメの補食を思わせる。
これは「ナウシカ」から一貫する「食べることも食べられることも同じ」であるという生命循環の根幹だろう。

また、一つの命が斯様に熾烈な環境から生まれるという”奇跡”のメタファーでもある。
現実世界での人間の出会い、精子と卵子の出会いもまた大いなる奇跡であるというのは子供には早過ぎる認識か。

無論、おそらくあの原始生命は人間のものだけではないはずだが。

「原始生命の昇天=生まれ変わり」を捕食し阻害するペリカンもまた、食糧が穫れない海で苦しむ存在であることはすぐ後に明かされる。
彼らは彼らなりに生きるために必死なのだ。
そんな異世界を彼らは「地獄」と呼んだ。

もしかしたらペリカンは罪人の死後の姿かもしれない。ペリカンやインコは成仏のための行である。そう考えれば、食欲旺盛なインコは極めて餓鬼的だ。
門や階段、石の通路や見えない壁で仕切られた世界は須弥山的、もしくは地獄的な階層世界を想起させる。

ちなみに映画で出てくるペリカンやインコ、青鷺がなぜ一貫して鳥であるかは分からない。原作へのオマージュなのか、なにかのメタファーなのか。

青鷺は物語の中で「道化・案内人・彼岸と此岸を跨ぐもの」としての役割を担っているが、現実世界と境界となる構築物が「異世界からやってきたもの」という設定など随所に彼岸と此岸、つまり「あちら側とこちら側」が見え隠れする。

最後に意味深な13という数字が出てくるが、あれはなんだろう。
西洋では忌み数として嫌われるようだが、陰陽ではなにか意味があるのだろうか?
現実世界での広大な屋敷と大叔父の住まう広大な洋館では長い廊下のシーンなどでパラレルな関係になっていると感じるが、13にも和と洋の何かを繋げるような、もしくは対比させるような意味が隠されているのだろうか。

今作で他作品と明確に違うのは男の子が単独の主人公で、人間として当たり前の暗部を持っている点だろう。
子供を聖なる存在としては描かない一方で、未だ見ぬ子供が無垢の象徴として大事に護られている。
夏子は生と死と時空が渾然一体となった世界で、無垢な原始生命の源として召喚されたのではないだろうか。無論、主人公の異世界への呼び水でもあるのは明確だ。

母のヒミはあくまでも「サポート&案内人」だ。まさに生育時における親子関係のようだが、今はもっと過干渉にマウントをとる子育てになっているように感じる。

「産屋への侵入」は重要なテーマだ。禁忌であると分かっていたはずのヒミが敢えて強く引き留めなかったのは、彼らの仮の親子関係に改善の必要があったからではないか。
夏子は眞人に「来てはいけない、来るな」と眞人を遠ざけながら「嫌いだ」という言葉まで発してしまい、一瞬、眞人を傷付けるが、眞人は怯むことなく夏子に夢中で手を伸ばす中で、母とそっくりな夏子に母の面影を混同し、「夏子さん」「母さん」そして「夏子母さん」と意識の壁を取り払うことに成功する。
夏子もまた最後に眞人を心から心配し「眞人さん逃げて」と力を振り絞る。

ヒミは気を失った眞人を抱え意識朦朧とした夏子に呼び掛けて結界が解けた産屋から出そうとするが、石からしっぺ返しを食らいあっけなく失神する。

この一連のシーンで現実世界での眞人と夏子のわだかまりが一気に溶解しつつ、禁忌を冒したことで次の展開への扉が開くのだが、眞人と夏子の関係の扱いについてはいささか乱暴のようにも見える。
普通、母の生き写しのような義母、つまり「死ぬほど会いたい人に似ていながら決定的に違う人」との関係のわだかまりが解けるには幾年もの共感や共有を必要とするところが、たった少しの時間でいきなり「もう一人の母」としての認識を獲得するというのは若干の無理を感じる。

しかし、戦争中はそうしたことはよくあったし、そもそも養子縁組も日本社会では普通にあったことなので、宮崎駿のリアリティとしてはこの関係性の推移は外せないものだったのかもしれない。

ちなみに主人公はヒミが母であることを、ヒミが夏子を妹と言ったことですぐに理解するお利口さんだ。この高速理解も血筋によるものなのか。
ここは子供の目線でマルッと受け入れる必要がありそうだ。
この仕掛けはまさに「秘密の森のその向こう」そのものだが、制作時期を踏まえるとオマージュだとは考えづらい気がする。

さて、いよいよ物語もクライマックスだ。
異世界の住人として多数を占めるインコの集団に捕らわれたヒミは、彼らの長たるインコ王によって「世界の統治者=大叔父」に対する交渉材料として失神したまま担がれる。ヒミを担ぐことでこれまで通れなかった通路を通って大叔父に辿り着いたインコ王が何を大叔父に迫ったかは明確に示されないが、おそらく世界をインコに譲れというようなことではないか。
インコ王は大叔父にはあくまで慇懃だ。ヒミも丁重に扱っている。彼らはけして敵対している仲ではないことがよく分かる。

ただ、インコ王は大叔父の作った世界の秘密が知りたいのだ。これは「権利の主張」そのものであり、いかにも西洋的な社会秩序の建設における推移を想起させる。
またインコ王は世界の王になりたい。これは人類史における権力者の拡大思考そのものではないか。
やがて眞人もそこに追いつき、大叔父と眞人との会話に移る。その少し前に部屋を辞すと見せかけたインコ王はこっそり覗き見ている。

大叔父がぎりぎりで保ってきた世界秩序はもう持たない。それには机上の「積み木遊び」が証左として描かれている。
これには世界秩序がかくも危ういバランスで成り立っていること、権力者の拙い遊びであることがメタファーとして読み取れる。

「世界知」とも捉えられる巨大な石が浮いた丘で、大叔父は新たな世界秩序の礎となる「悪意に染まっていない石」を”13個”机上に置きながら、眞人に異世界の後継者になるよう請願する。しかし眞人は「自分は既に穢れておりその刻印が身体に刻まれているので無垢な石には触れられない」と断り、穢れに塗れた現実世界で「友達を作る」と宣言する。
これはまさに宮台真司が言うところの「荒野を仲間と生きろ」というこれからの日本人へのメッセージと重なる、「君たちはどう生きるか」という問いに対しての解であるとも受け取れる重要なやり取りだ。

自分だけ理想の聖なる地で積み木遊びに耽ってはいられない。穢れた地に足を踏ん張って仲間と共に生きて生きて生き抜くのだという強いメッセージは、「ナウシカ」のラストにも繋がる、アニメ映画制作当初から変わらぬ宮崎駿の世界観だ。
「世界知の継承にこだわる人間」が指し示すのは「旧世界に固執する人間」である。眞人は「穢れと傷を持ち地に足をつけて生きる生身の人間=真の人」である。無垢な世界からは最初から嫌われている。

そうした重要なやり取りの最中、誰かが世界秩序を正しく丁寧に負わなければならないのに、短絡的で畏れを知らぬマッチョなインコ王が「俺が継いでやる!見てろこのヤロー」とばかりに石を一気にめちゃくちゃに積み立てて、秩序が完成できないからといって安易に一刀両断し破壊してしまう。

まるで第二次世界大戦の序章たる日本の国連脱退の場面を見るようだ。
この破壊は秩序だけでなく、文字通り「世界の崩壊=第二次世界大戦」だったと私は見ている。

世界の崩壊から逃げる最中、世界の破れ目からは漠とした宇宙が垣間見られる。
最後まで大叔父の”気持ち”に寄り添っていたのは母であるヒミだけだった。ヒミは異世界での滞在期間が長いだけに、大叔父の世界への理解もそれだけ深かったに違いない。

呪力を持った石を異世界から持ち帰ってしまった眞人は、かろうじて異世界たるパラレルワールドの記憶の保持者になった。
眞人が「記憶」や「世界秘密の保持者」であることを示唆するこの結末もまた何やら天皇家めいて感じられる。
なにしろ天皇家とは戦前よりもっと昔の”我々”の記憶を保持する唯一の一族なのだから。

無論、多くの日本人の意識と天皇家が保持し継承する記憶とは、ほぼ断絶しているのが現在なのは言うまでもない。


この映画は戦争を知る世代である日本人のアニメーターが贈る最後の「芸術作品」というのが死後の評価になるだろう。
しかし、生存中は「コケた」とか「分かりにくい」など不平と不評に曝され挙げ句の果てには「老害の駄作」とまで言われるかもしれないが、それも死後しか評価を見直せない、メタファーが読み取れない知性の劣化など、”日本人の劣等性”故のことだと思う。

今回のメタファーを理解するには総合知と高度な共感が必要だ。
そのために抽象性によるエッセンスの授受があるのだが、今回はそこのところの作者と鑑賞者の応答がうまくいかないケースが目立つ。

意味を探りすぎるのは大人の悪い癖ではあるが、今回は宮崎映画の中では初めてかもしれない、”解説”が必要な映画ではあると思う。
そうした意味でエンターテイメントとしての映画では失敗かもしれないが、芸術作品としては見応えも読みとり甲斐もある素晴らしい「老境の傑作」であると私は思う。
宮崎駿はあくまで「アニメは子供のもの」というのが信条。今回は芸術性が極めて高いが、やはりその信念はファンタジーとキャラクターに表れる。

ヒミ、夏子、眞人、という名前も大変メタファーに富むものだった。
火と夏は共に太陽を象徴している。古代太陽信仰の太陽神またはアマテラスか日の本日本か。ヒミなどとくに古代的な響きを持っている。ストーンヘッジが力を持つ異世界での名前なのだろうか。それとも本名か。ヒミは長いこと異世界にいるため呪力を身につけたのだろう。

眞人は真の人。異世界での人間存在代表。「穢れの傷を負う者」である。

ストーンヘッジや石という本質と霊性に力を持たせたのは流石だった。
古代世界の石の観念がどっしりと異世界を支えている。
「異世界の崩壊」が瑣末な「老人の妄想の崩壊」ではないことを裏付ける。

この物語を、「爺いの独りよがりで無垢な創造世界と決別し、穢れた世界を真の人として仲間と共に生きていく!」なんて単純な見方はできない。
異世界はパラレルワールドであり、たしかに創造世界でもあるが、複合的なメタファーにもなっている。
おそらく宮崎駿の記憶や体験、意思や思考など、一人の巨匠の脳内における色々が反映されていると見ていい。故に単純には理解なんてできやしないのだ。

アンパンマンやスーパーマンのような正義と悪の二項対立では図れない。
だからこそ、スッキリない、分からないで片付けて低評価のレッテル貼りをするパッパラパーな人が相当多いだろうと予想される。

石を積む、積み木遊びで行われる危ういバランス。そんな小さなものが世界秩序のメタファーになっているのは、部分と全体の関係性であり、権力者の熟慮に欠けた鶴の一声で歴史が動いてしまう危うさを孕んでいる現実を照射しているのだ。

また異世界の崩壊は一神教的世界の崩壊とも読み取れる。
思考停止で安易な”正解”を求めがちだった20世紀的価値観との訣別でもあったのではないだろうか。

少なくとも、眞人の選択には、これからの未来の子供達へのメッセージがギュッと凝縮されているに違いない。

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