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「道真公遺産」のおはなし

泉頭四郎兵衛

泉頭四郎兵衛顕彰碑(川根本町)


 千頭(川根本町)の開拓者として伝えられる「泉頭四郎兵衛(せんずしろうべい)」は「菅原道真(みちざね)」の孫で、本名は「菅原泉樹(せんじゅ)」であった。道真が延喜元年(901)、冤罪で九州大宰府に左遷された際、一族は離散し、泉樹は供の者たちとこの地に流れ、泉頭四郎兵衛と名を変えた。

そして「千頭」の地を開いた、その後、代々の泉頭四郎兵衛は今川義元や徳川家康に仕えた(『かわねほんちょう議会だより』第51、52号)。家康は天下統一の後、泉頭四郎兵衛の功績に対して千頭地域の租税免除の「御朱印状」を与えた。しかしその御朱印状は家康の死後幕府に取り上げられたのだった。

菅原道真の死から千年余に亘る泉頭四郎兵衛の物語は、明治になって村人たちによって顕彰された。 
 同じく千頭より下流の下泉には、「井堀玄蕃(げんはん)」という道真の臣下が、「道真公」の尊像を背負い、京都を出立し、流浪の旅の後、下泉に至った、と伝えられる。その像は下泉の「小嶽(こだけ)天神社」に祀られた。

菅原道真


 菅原道真は承和十二(845)年、代々「儒者世界にそびえ立つ家系-学問の家」(滝川幸司『菅原道真』)の家に生まれた。三十三歳の時には「文章博士(もんじょうはかせ)」となり、宇田天皇の重用を受け、「右大臣」にまで出世した。しかし、中級貴族出身の道真の出世が藤原一門の妬みを買うことになる。

「左大臣」藤原時平は、宇田天皇退位後即位した醍醐天皇に、「道真が醍醐天皇の弟を天皇にしようと画策、謀反の疑い」ありと、慚言、これを信じた天皇は道真を九州大宰府に左遷した。無実を訴え続けた道真であったが、三年後、無念の涙の中、大宰府で死去した。五九歳であった。 
 
以来京の都で不吉の風が吹き荒れる。時平の突然の死に始まり、天皇家に嫁がせた藤原一族の皇后たち、皇太子たちが相次いで亡くなった。更には疫病が流行り、道真の怨霊の噂が広まった。その後も宮中清涼殿に落雷、大納言ら官史が数人亡くなった。ショックを受けた醍醐天皇も崩御した。道真の怨霊におびえる朝廷は、天暦元年(947)京の北野に道真を神として祀った。「北野天満宮」の創建である。

「人々は雷神という祟る怨霊を神社に祀り上げることによって学問神という福の神へと変化させたのである」(河合敦「繰り返す日本史」)。現在道真を祀る天満宮は全国で1万3千社を超え、人々からは学問の神「天神様」と呼ばれ敬われている。

臥牛


大井天満宮臥牛(島田市)


 島田市の大井神社には「大井天満宮」があり、道真が祀られている。そこには「京都天満宮よりご分霊奉祀、学業成就、合格祈願…例祭十月二十五日初天神一月二五日 神牛をなでてお参り下さい」と記され、参道入り口には「臥牛(がぎゅう)」が置かれている。

道真は無念の死に際し、自らの遺体は「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」と言い残した。死後、遺体を牛車で運び進んだところ、ある場所で牛は座り込んで動かなくなってしまった。人々はその地に道真を葬り、その後、延喜19年(919)大宰府天満宮を創建した。現在、北野天満宮と共に全国天神社の総本山である。また、道真の遺志を現わした「臥した牛」も「神牛」として祀られた。

島田の「大井天満宮」にも多くの人々が訪れ、「頭が良くなりますように」との願いを込めて臥牛の頭を撫でる。臥牛の頭は、見事に輝いている。

流域の道真伝説


 道真の栄光と没落、天神への昇華、その伝説は、千年余の時の流れを経て、日本中の至るところ隈なく伝わっている。「泉頭四郎兵衛」は道真の孫と伝えられるが、道真は妻「宣来子(のぶきこ)との間に、二人の子があり、他に十二人の子がいた。

「川根本町議会だより」によれば、泉頭四郎兵衛の父とされる「兼茂(かねもち)」はその三男で、道真の左遷と同時に飛騨に左遷された。兼茂は道真の死後、自ら道真の木像を彫り、飛騨の地に祀ったとされる。現在の飛騨天満宮である。

 そして大井川流域に流れた道真の一族が、「千頭」を開いた。こうして時間が新たな物語を紡いだのだった。
 更に、この流域には「合格駅」もできた。道真の苦笑が目に浮かぶ。
 

(地域情報誌cocogane 2018年12月号掲載)


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地域情報誌cocogane(毎月25日発行、NPO法人クロスメディアしまだ発行)

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