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「初代県知事関口隆吉」のおはなし

牧の原開拓


関口隆吉像(菊川駅前)


 令和二(2020)年1月、関口隆吉(たかよし)の銅像が菊川駅前に建てられた。前年の令和元年は牧の原開拓150年、堀之内(菊川)駅開設130年にあたり、菊川市市制制定記念日のその日に隆吉像は建立されたのだった。そこには「明治三(1870)年金谷開墾方頭取並となり、菊川市月岡に居を構え、中條景昭や大草高重などと牧の原台地の茶園開拓の大事業に尽力しました。」と記されている。

慶応三(1867)年、徳川慶喜は大政を奉還し、明治二(1869)年駿府に移る。慶喜の警護役だった隆吉は翌年、金谷開墾の任を得て菊川に居を構えた。牧の原開墾は、すでに中條景昭を隊長とする旧幕臣と仲田源蔵を総代とするかつての川越人足達が入植していた。しかし、隆吉には中條や大草のような開墾作業に従事した記録はない。

 そして、わずか一年後の明治四年、隆吉は明治政府の招きに応じて牧の原を離れた。中條、大草らも同様の誘いがあったが、これを断りこの地に骨を埋めたのだが・・・。

キャリア


 関口隆吉は天保七(1836)年、江戸で幕府与力の家に生まれた。17歳で家督をつぎ「御持弓与力」として幕府に仕える。江戸から明治への混迷する時代の中にあって、隆吉は、常に徳川慶喜と行動を共にした。

その後、明治政府に任官された隆吉は、山形県参事を皮切りに地方の官吏として活躍する。明治十七(1884)年、49歳の時に静岡県令として赴任し、地方官制の改正によって初代静岡県知事となった。その後の静岡県での業績は各地に残る。天竜川水系の遠州への治水、田子の浦港石水門の設置等々、更には徳川家文書を軸とした葵文庫の設立などである。

しかし明治二十二年、東海道本線全面開通の記念式典に出席の途次、鉄道事故に巻きこまれ、その傷がもとで、死亡する。隆吉54歳であった。

原点


 慶応三年、隆吉は、江戸九段坂で馬に乗ってきた「勝海舟」に切りつけた。しかし、刀は馬の鐙(あぶみ)にあたり、海舟はその場を逃れた。後日二人は和解するのであるが、以来海舟は隆吉を「鐙斎(とうさい)先生」と呼んでいた、と伝えられる。この事件は隆吉の思想的な位置を物語る。隆吉は、ペリー来航以来、幕府の対外政策に亡国の念を抱いていた。彼は外国人を排斥し、鎖国の継続を主張していた。開国を進める海舟との違いはここにあった。

 その後、時代は動く。攘夷、鎖国論の隆吉であったが、開国派の海舟の下で、徳川家の存続に力を尽くす。

忠君と報徳


牧野原開墾紀功之碑

 新しい時代にあって、関口隆吉は、明治政府の下、常に中央ではなく地方においてその任を果たしてきた。自身も儒学塾を開いた事もあり、彼の基軸は「忠君」にあった。更に、「二宮尊徳」の「報徳思想」も身上とし、すべての農民たち(人民)は、目先の利益のためではなく、徳のために働き、分相応の生活を共有し、全体に奉仕する、そのことによって全体の利益の向上に資する、とするものであった。

それは当時の地方行政の理想であり、隆吉はまさにその忠実な実践者であった。その非凡な指導力、判断力、更には「人情に厚く物欲に淡とした」人間性は「歴代知事中最も評判良く、県民にモテるは関口隆吉なり」(静岡県『静岡県政史』昭和四年)と、称えられている。  
 
言うまでもなく現知事も高い「徳」を誇り、「富国有徳」を県是とし、県民の誇りとなっている。
島田市初倉牧の原台地の一角に「牧野原開墾紀功之碑」(明治十一年)が建てられている。そこには中條、大草と並んで関口の名も刻まれている。
 関口隆吉は忠君、仁政の人であった。

(地域情報誌cocogane 2022年11月号掲載)


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地域情報誌cocogane(毎月25日発行、NPO法人クロスメディアしまだ発行)


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