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「サムライたちのキリスト教」のおはなし

今井信郎の入信

今井信郎

 今井信郎が竜馬暗殺の罪で捕えられ、特赦で開放され静岡に移ってきたのは明治五年のことであった。その頃の今井は、静岡にいる宣教師の「斬り役」に選ばれるほど血気壮んな青年であった。

ある日偶然に横浜海岸教会で説教を聴いたところ、ひどく感激し「静岡に帰るや否や、・・・熱心に道を研究して、終に善良な信者となったのである。」(『海舟座談附録』)。今井の洗礼は明治一五 年、静岡教会献堂式の後とされる(『静岡教会六○年史』)。

今井はその後、初倉村村長、農業を主体とした産業振興、教育活動などに深く関わり、「行動するキリスト者」としてその名を知られるようになる。

静岡学問所

静岡学問所之碑

 維新直後(1868年)徳川慶喜の来静とともに「府中学問所」には江戸昌平坂学問所のトップの人材が集結した。教授らは100人を越えていた。明治二年に「静岡学問所」となり、明治四年には、アメリカからエドワード・クラーク(1849~1902年)が招聘される。

クラークは物理科学、歴史、経済などの講義と共にキリスト教を熱心に教えた。明治五年、新政府は突然地方の学問所を閉鎖し、東京開 成学校に人材を移す。方、今井家には「信郎は学問所の払い下げを受けて教師役を集め私立学校を設立した」(長谷川創一『実録竜馬討伐』静岡新聞社)と伝えられる。

「宣教師斬り役」の今井ではなく、宣教師らによる欧米の学問を積極的に取り込む今井の姿が語られる。学問所は「賎機舎」と名付けられ、今井と共に函館五稜郭で戦った人見勝太郎が運営にあたる。明日を模索する多くの若いサムライたちがキリスト教に飛びついた。

静岡バンド


 クラークの後任として賎機舎に来たのはカナダ人医師のデビッドソン・マクドナルド(1836 ~1905年)であった。医師である彼は治療とキリスト教の伝道に努め た。こうして明治七年(1874年)山地愛山ら11名の若者がマクドナルドから洗礼を受けた。彼らは「静岡バンド」と呼ばれた。

その頃日本各地にキリスト者のグループが生まれ、それぞれ札幌バンド、横浜バンド、熊本バンドと呼ばれ、明治日本で大きな役割を担う人材を輩出した。後日洗礼を受けた今井信郎も静岡バンドの一人とされる。

それぞれの多くは幕臣であった。山地愛山は言う「総ての精神的革命は時代の陰影より出ず」(『日本教会史論』)と。薩長という表舞台に対して、陰影とは確執と反感を抱くサムライたちの思いであった。

武士道 


 内村鑑三は語る「世界 は・・・武士道の上に接 ぎ木されたる基督教に よってすくわるる」(『武士道とキリスト教』)と。 静岡バンドら全国のバン ドの大半はサムライたち であり、彼らは高い倫理 観の下にキリスト教を受け入れ、宣教に努めた。

しかし彼らが世を去るその時、武士道とキリスト教も終焉を迎える。信郎の孫今井幸彦は「信郎改宗のことが漠としているのは、一つはその息子、娘たちが・・・、これを父親の一時の気紛れと見、またそう考えたくもあった結果」(『竜馬を斬った男』新人物往来社)と語る。

キリスト者として「静岡に今井あり」と語られた人生は次世代にその陰影を引き継ぐことはなかった。それは明治日本のひとつの終りと重なる。

(地域情報誌cocogane 2018年6月号掲載)


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地域情報誌cocogane(毎月25日発行、NPO法人クロスメディアしまだ発行)

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