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「空海と弘法大師その非俗と俗」のおはなし

弘法大師の井戸

弘法井戸(勝間田/牧之原市)


 平安の頃、一人のみすぼらしい僧が、その旅の途次、咽喉の渇きを覚えて一軒の農家に一杯の水を乞うた。しかしその乞食の風体に断られる。やむなく歩き続けるが渇きに耐えかね、そこに見た農家に水を求めた。その家の年老いた婦人は旅の僧を快く迎え入れ、遠くの谷川から水を汲んで来て旅の僧に与えた。僧はその冷たい水に渇きを潤した。そして、飲み終わって言った。「私が良い井戸を造ってあげよう」と。その僧はあたりを歩いて杖を立て、「ここを掘るように」と言い残し、旅立った。婦人は不審に思いながらも村人とその所を掘ると、冷たく清らかな水がこんこんと湧き出てきた。喜んだ村人たちは、あの僧こそ弘法大師様に違いない、とその井戸を「弘法井戸」と名付けた。井戸は今も勝間田(牧之原市)に残る。(『さがらの伝説百話』)
 井戸や堤、貯水池など弘法大師の足跡は各地に残り、弘法大師像を祀る小さな祠は、村人たちの信仰を集めている。

空海とは

 空海(宝亀五年・774~承和二年・835)は、18歳のとき大学に入るが、一年で退学し、私度僧(しどそう)となって放浪する。この間は「空白の七年」と言われる。その後、土佐室戸岬の洞窟で空と海のみ見つめて修行をしていた時、突然宇宙の虚空から一筋の光が自身の口中に飛び込んできた。空海は語る。「明星、口に入り、虚空蔵光明照し来」と。この時、宇宙の真理(大日)と「自己」の実存との一体を悟ったとされる。真言密教への目覚めであった。
 空海は天才だった。31歳で唐の長安、密教大本山、青竜寺の恵果(けいか)に師事。初対面で恵果は「我、先より汝が来る事を知りて、大いに好し、大いに好し」と語り、密教の奥義をすべて授けたと伝えられる。
 空海の密教は仏陀釈尊という歴史上の人物を超え、永遠の時間と空間の中心である「大日如来」への信仰である。人間のすべての苦悩、欲望、願望に対して、まさにその時、大日如来は諸仏、諸菩薩、諸天となって、人々を救いに現われる。人間はありのままで「即身成仏」し、救いが訪れる。それは、徹底的な現世肯定を意味していた。「欲箭(よくせん)清浄の旬 是菩薩なり、愛縛清浄の旬 是菩薩なり」(「『趣経』)と男女の愛欲も菩薩となる。こうして密教の絶対的な現世肯定は多くの人々の心を捉えたのだった。

高野聖

 空海は嵯峨天皇から、吉野山中「高野山」を賜り、弘仁九年(818)山上に密教本山の建設に着手する。その配置は曼陀羅世界を体現すべく、伽藍や講堂など広大な構想であった。しかし空海はその完成を見ることなく没した。61歳であった。
空海が入滅した68年後、醍醐天皇は空海に『弘法大師』の謚(送り名)を与えた。弘法大師伝説の始まりであった。弟子たちは高野山の勧進(寄付)を求めて全国を行脚した。彼らは『高野聖(こうやひじり)』と呼ばれた。その出で立ちは短い墨染の衣を着て、檜(ひのき)笠をかぶり、笈(おい)を背負っていた。道路や橋などの建設、井戸掘りや漢方医学の施術にも関わり、更には人々の求めに応じて祈祷も行った。一方、衆生は現世の救いと同時に、来世の救いも求め、浄土宗の説く念仏による極楽往生を信じ、南無阿弥陀仏と唱え続けた。そして、「密教による即身成仏(生きているままの成仏)と浄土教による来世往生(死後の浄土成仏)とが究極的に同一」(山折哲男『仏教とは何か』)、との信仰が全国に広がった。この世でもあの世でも救われたい、という衆生の願いは、まさに弘法大師に託された。それ故に、大師は今も旅を続けている。

俗と非俗


弘法大師(鵜田寺/島田市)

 「空海は一人の人格の中に俗と非俗という一見相反する一面をあわせもち、それらを見事に両立させた不思議な人物と言うことができる」(松長有慶『密教』)。まさに非俗と俗が空海であり弘法大師であった。 
空海の死後千余年の間、弘法大師は今も旅をし、人々のこの世の苦悩に手を差し伸べてきている。更に、高野山での空海は入滅ではなく、入定として、今なお生きており、高野聖たちは、日々食事を供えている。

(地域情報誌cocogane 2023年6月号掲載)

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地域情報誌cocogane(毎月25日発行、NPO法人クロスメディアしまだ発行)


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