playtime
2022.9.29
朝、起きて一時間くらいは起き上がらなかった。
横になっていた、というよりは硬く縮こまった体を伸ばすように、体の各部を捻ったり曲げたりしていた。急に起き上がるような、体に負担のかかる起床の仕方をすると、通勤の間や昼下がりにふらついたり立ちくらみが起きたりするなど、確実に何かしら現れてくる。今日はなんとなく、ゆっくり起きたほうがいいと思った。ゆっくり起きるために、今のわたしを選んでいると言っても過言ではない。
植物を見つめながら、朝をもっとゆっくり過ごせたらいいのに、と心から思った。そのためには、予定を後ろにずらすか、自分がもっと早く起きるかだ。希望を言えば、ゆっくり過ごした後に、もう一度寝たい。
でもきっと二度寝をした後に、時間を潰してしまったような後悔を抱えることになるから、それなら寝ないほうがいい。
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体を動かしている、操縦しているのはわたしであるはずだけれど、体は頭とは別に意志を持っていると思うことが時々ある。それが経験から学習したものなのか、自己を持っているのか、どちらなのかは全く推し測ることができないが、体には体のわたしがいると思う。その体を尊重したいけれども、やっぱり頭でわたしは考える。人間ってむずかしい。
そして、体の都合と頭の都合のほかに、わたしの都合と社会の都合のバランスも取らないといけなくて、そのために時間とお金のバランスも考えないといけない。全てを両立するには考えに考えないといけなくて、その考えを実行するためには健康な体が必要で、結局また朝のことを考える。
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今日は朝にギターを弾かなかった。
けれども、朝にギターを弾いて過ごせた日のほうがそのあと一日中、気分がいい。
昼に弾いてしまうと、バランスが狂う。
夜に弾かなければ、しっくりこないまま眠りにつくことになる。
昼には動き回って、ギターのことなんて微塵も考えていない。
昼のわたしと、夜朝のわたしは
別のわたしを過ごしている。
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