JBFな人たち #11 杉原賢(SWITCH DE SWITCH)
JAPAN BRAND FESTIVALにかかわる人たちは、一体どんな想いを持ってものづくりやビジネスをやっているのか? JBFに入って良かったことは何か? 当事者たちにインタビューしてきました。
今回お話を聞いたのは、パートナーとの関係性を限定しないペアリング「ふたり指輪」の専門ブランド『CONNECT by SWITCH DE SWITCH』ブランドディレクター、杉原賢さん。ジュエリーデザインの専門学校から“箸休め”で兵役に行ったという、すご〜く濃い人生経験の持ち主です。
『クローズ』みたいな男子校からジュエリーの道へ
——杉原さんのnoteを拝見したのですが、どこから聞いていけばいいかわかんないくらい壮絶な人生ですよね。ちょっとかんたんに略歴を教えていただいてもいいですか。
杉原 えっと、韓国のソウルで生まれて→1歳からずっと山梨県で育って→孤児になって→高校のときにまた韓国に行って、『クローズ』みたいな荒れた男子校でくっちゃくちゃに揉まれて→渋谷にあるジュエリーデザインの専門学校に行って、いろんな賞をもらって→箸休めに韓国で2年兵役に行って→日本に帰ってきて表参道のオーダーメイドブランドでジュエリーデザイナーをして→起業して「ふたり指輪」の専門ブランド『CONNECT by SWITCH DE SWITCH』をリリースしました。30歳で、イマココです(笑)。
——濃い濃い(笑)。まず、韓国版『クローズ』高校から、渋谷のジュエリーデザイン専門学校への転身が気になります。
杉原 これは結構普通の話で、両親が韓国でジュエリー職人をやってるんですよ。僕はそんなに手先が器用なほうじゃなくて、どちらかというと絵が好きだったんですが、父親から「絵が上手だからジュエリーデザイナーになればいい。そうしたら家族で仕事ができる」と言われて。口車に乗せられた感じです。
——それが、天職だったわけですね。
杉原 指輪で起業までしちゃったんで、そうかもしれないですね。家族経営の予定はありませんが(笑)。
最初は、いい意味で想像とのギャップがあったんですよ。ジュエリーって聞くと、普通は「宝石がキラキラ〜」みたいなのを想像しますよね。僕もそうだったんですが、専門学校に行ったら、もっと奥深いものだとわかった。宝石キラキラの「ファインジュエリー」はもちろん、クロムハーツみたいな「シルバーアクセサリー」もあるし、なかでも僕がどハマリしたのが「コンテンポラリージュエリー」というジャンルで。
——はじめて聞きました。どんなジュエリーなんですか?
杉原 ドイツなんかが本場で、アート性の強いジュエリーデザインなんです。僕はもともとアートが好きだったので、デザインを考えるのも楽しくて、承認欲求もあってガンガン公募展に出品しました。
はじめて受賞したのが「JJAジュエリーデザインアワード」という日本で一番大きいジュエリーアワードの新人賞で、認められたのが嬉しくていろんなアワードに出品したんだと思います。結果的に、専門学校で歴代一番たくさん賞をもらった学生になりました。
——すごいじゃないですか!
杉原 それまで結構ひねくれていて、「うまくいっている人は何かコネがあるんだろう」とか考えちゃうタイプだったんですよ(苦笑)。でも、受賞してはじめて「努力が報われるんだ」と思えたし、自信もついた。受賞はもちろん嬉しいけど、自分に自信が持てたことが一番大きかったですね。
箸休めで、兵役
——輝かしい未来が待っているのに、どうして兵役へ?
杉原 ジュエリーデザインをするのは好きだったけど、すぐにこの世界で働くイメージはできなかったし、コンテンポラリージュエリーの本場ドイツで学ぶという選択肢もしっくりこなかった。それで、箸休め的に兵役に行ったんです。
——いやいやいやいや。休まらないでしょう(笑)!
杉原 高校がすごく大変だったんで、比べると軍隊は楽に感じました。「ちょっと激しめのアウトドア」みたいな。訓練が終われば自分の時間もあるから、この先どうしようか、ずっとモヤモヤと考えてました。で、親から送ってもらった雑誌なんかを読んでると、当時発売したばかりのiPhoneのアプリを大学生が開発して、大成功してたりして。
「自分はジュエリーのデザインなんかして、全然社会の役に立ってない」と劣等感でいっぱいになったりしました。
——そこからどうしてまたジュエリーの道へ?
杉原 いくら劣等感を感じたからって、今からプログラミングを学んでアプリを開発するのは違うと思ったし、ジュエリーデザインは自分の特技でもあるので、このスキルをそのまま捨てるのはもったいないな、と。「ジュエリーの文脈で社会の役に立つには?」と考えた結果、結婚指輪だと思い至ったんです。
——たしかに結婚指輪は、ファッションを超えてライフスタイルや価値観に紐付いていますね。
杉原 それで、注目していた表参道にある結婚指輪のオーダーメイド専門店に自分のポートフォリオを送って、デザイナーとして働きはじめたんです。デザイナーがカップルを直接接客して、ヒアリングしながらデザインを決めていく、ちょっと変わったブランドなんですが、もともと接客も好きだったので、すごく楽しかったです。
「結婚指輪が着けられない人」になってしまった
——それなのに、どうして起業したんですか?
杉原 結婚指輪って「パートナーとの婚姻関係をアピールするために、左薬指に着ける指輪」なんです。それだけで、あとは普通の指輪と何も変わりません。それなのに、LGBTQや事実婚のカップルにはハードルが高いものになりうるんですよ。オープンにしていない人にとっては、それが意図しない詮索を生むこともあるから。それを接客するなかで知って、なんとかしたいなと思っていたのが、理由のひとつ。
もうひとつが、僕の韓国籍が原因で彼女のご両親に結婚を猛反対されたこと。結婚指輪も用意してたんですが、「別れたくないし、でも結婚するわけにもいかないなら、左薬指以外に着けようか」なんて話し合ったりして。
——結婚指輪が当たり前ではない状況になった。
杉原 そうなんです。やっと実感を持って「結婚指輪が着けられない人」「結婚指輪に違和感がある人」の気持ちがわかった。結局、僕がご両親を説得して、結婚することができて、今では子どももいて幸せなんですが、結婚指輪じゃない、パートナーとのつながりを常に感じるための指輪は、そんな経験をした僕がつくるしかないと思っちゃったんですよ。それで、SWITCH DE SWITCHを設立しました。
——そうして今手掛けている「ふたり指輪」につながるわけですね。JBFに入ったのは、「ふたり指輪」を広めるためですか?
杉原 オンラインを活用して販路を広げるきっかけになれば、と思って参加したんです。でも、別の業界のクリエイターの方と会うたび刺激を受けるし、自分は井の中の蛙だったな、と気づかせてもらえる。想像もしなかった出会いもある。最初に「濃い人生だ」って言ってもらいましたけど、ここから先、もっと濃くなっていくと思います(笑)。
杉原賢
ライフスタイルフランド「SWITCH DE SWITCH」ブランドディレクター
1990年ソウル生まれ、山梨県育ち。14歳で両親が別々に失踪し、分類上の孤児になる。母に連れられソウルへ移住し、韓国語が話せないまま男子高校へ入学し、美術教育を受ける。東京渋谷のジュエリー専門学校へ入学し、在学中に国内最大のジュエリーコンペティションで新人大賞を受賞。その後、韓国陸軍へ入隊し、北朝鮮の手前で2年間、戦車の砲手を務める。兵役を終え、東京表参道のジュエリーブランドに入社。約2000本の結婚指輪をデザインする。そして、自身が結婚を反対された経験から”ふたり指輪”のコンセプトを着想。SWITCH DE SWITCHを設立し、『CONNECT』をリリース。二児の父。
https://connect.switchdeswitch.com
photo:Eichi Tano