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ゴミクズ父さんヒーロー父さん



僕は、ふたりの父親に育てられました。


絵に描いたようなダメ親父、ゴミクズ父さん。
そして、絶望する僕ら家族を救ってくれた、ヒーロー父さん。

このnoteは、人間性が全く違うふたりの父親から、人生の酸いも苦いも学びながら("甘い"はほとんどありません)僕が成長する物語です。

まずは血のつながった実父、ゴミクズ父さんについて。

その前に突然ですが、ゴミクズ父さんも、ヒーロー父さんも、母親も、登場人物はみんな韓国人です。つまり僕も韓国人です。
大変ややこしいですが、今後お話の中で日本と韓国を行ったり来たりするので、お含み置きいただきたく。

ゴミクズ父さんは、日本は山梨県で「有限会社リー工芸」の経営者をしていました。(会社名w) 事業内容はジュエリー加工業の下請け。平たく言うと、ジュエリーの量産工場です。

僕と弟が生まれてから間もなく事業を始めたらしく、最初はそれなりに頑張って家族を養っていたようですが、母曰く、光の速さでゴミクズ化していったそうです。

酒、タバコ、ギャンブル、借金、オネーチャン、暴力…etc。僕が物心ついた頃から、あらゆるクズタスクをコンプリートしていました。特に、お酒絡みのトラブルが多かったですね。

飲酒運転で免許取消

その1週間後に無免許で再び飲酒運転

衝突事故

ブタ箱に入れられる

母が多額の保釈金と慰謝料を用意

という"クズのロイヤルストレートフラッシュ"が炸裂したことは記憶に鮮明です。この事件は地元新聞の一面を飾っていました。 当時、担任の先生からもらった飴玉の味が忘れられません。

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そして注目すべきは、母のタイムスケジュールです。ざっと下記のような感じでしょうか。

06:00 起床。息子達を起こし、朝食を与え登校させる
07:00 家事全般(掃除機をかけるとゴミクズさん激怒)
08:00 工場を開け、職人達の朝食を用意(職人は住み込み)
09:00 各種請求書の処理。事務仕事
10:00 ゴミクズさんをいきつけのパチンコ店へ送る
10:30 石留め(宝石を金属に留める技術)作業
13:00 職人達と昼食
14:00 再び石留め作業
16:00 洗濯物を取り込む為に一時帰宅
17:00 パチンコ店までゴミクズさんを迎えに行く
18:00 ゴミクズさんと息子達の夕飯をつくる
19:00 完成した商品の検品作業
20:30 取引先へ車で納品
21:30 工場を閉める
22:00 シャワーを浴びる
23:00 取引先からの商品クレーム。急いで回収へ
25:00 自宅駐車場の車内で、返品商品を抱えながら泣く
26:00 就寝
06:00 起床。上記をリピート

驚異的です。母やばし。ちなみに母は元々、職人でもなんでもありません。石留めはゴミクズ父さんが仕事をしなくなってから覚えたそうです。今では普通の健康的なオバチャンですが、当時はガリガリで、僕の記憶をなぞると↓が肖像画となります。

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母に当時のことを聞くと「ほとんど記憶にない」と低度の記憶障害を訴えます。そりゃ、忘れたくもなりますよね。上記の話は、ある程度大きくなってから知ったことですが、幼い頃の僕と弟にとって、ゴミクズ父さんとの思い出は、恐怖一色でした。

酔っ払っていたり機嫌が悪いと、とにかく殴るんです。僕ら兄弟と母を。酷く殴られた翌日は、体中の痣が熟れまくったバナナを彷彿させました。

そして賢少年12歳の秋、ある出来事が起きます…

シュガースポット母さん、国外逃亡。(離婚済)

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飛行機に乗る6時間前、自宅近所の駐車場で僕にだけこっそり別れを告げて、母は去りました。逃亡理由は「あの人(ゴミクズ)と同じ国にいたら、殺される」というシンプルなもの。


逃亡が発覚した直後のゴミクズ父さんは、荒れていました。


ある日のことです。
夜中に泥酔状態で帰ってきたゴミクズ氏。寝ている僕の胸ぐらを掴み、強引に叩き起こします。

「おまえの母親どこいった。言え!」と寝起きに怒号。酒の臭い。これは現実ではなく悪夢だと思いました。

視線は明らかな殺気を帯びており、右手には、包丁を握っています。え、殺される?親に?まじで?僕はただただ混乱し、怯えていました。
しかしそれ以上に「この人に喋ったら、母は捕まって殺される」という思いが強く、しらを切り通しました。父親に命乞いをしたのは、さすがにこれが最初で最後です。翌日、包丁を押し入れに隠しました。

それから2年後、僕ら兄弟の人生を変える決定的な出来事が起こります…

ゴミクズ父さん、蒸発。

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消えました。ある日突然音もなく。
会社はとっくに倒産しており、工業にあった大型工具にはすべて差し押さえのシールが貼ってありました。詳しい額面は知りませんが、借金も相当あったそうです。

それからしばらくは、自宅に役所のおじさん達と反社会的勢力のおじさん達がローテーションで訪問するようになりました。僕ら兄弟を脅してみたり、励ましてみたりと、めんどくさかったです。

子供ながらに、社会の底辺にいる自覚がありました。将来もろくなもんじゃねえなこりゃ。とも思っていました。
それからほどなくして、家なき子となった僕ら兄弟は、児童養護施設に入ることになりました。分類上、孤児ですね。

どこからかそれを聞きつけた母が、急遽山梨へ迎えにきてくれました。それからあれよあれよと、韓国ソウルへの移住が決まります。

僕と弟は、思わぬ形で祖国、韓国の地を踏むことになりました。知っている韓国語は、キムチとハムニダだけ。とても不安でした。
そして渡韓後、母から最初に紹介されたのは同居人のおじさんでした。

その人こそが、ヒーロー父さんです。

胸高鳴りました。これがあの、噂に聞く韓流ドラマの王道パターン…

韓国へ逃亡した母親が、大富豪と出会って玉の輿に乗った!みたいなシンデレラストーリー!

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を期待しましたが、実際は全く違いました。

初めて会った時のヒーロー父さんは、毛玉だらけのニット帽、油汚れの目立つダウンジャケット、ダボダボのジーンズに薄汚いスニーカーという、到底ヒーローとは思えないホームレスファッションでした。この時の僕がもし、ツイッターをしていたなら、こうつぶやいたはずです。

「はい、人生オワタ」。

ヒーロー父さんもワケありで、母同様、バツがひとつ付いています。出会った当時、所持金は二人合わせて2万円程度だったそうで、住む家もない状態でした。

"40前の中年ホームレスカップルが誕生した"という、小さな悲劇ですね。

家なき中年の二人は出会って間もなく、日銭を稼いでアパートを借りました。そこに僕ら兄弟も一緒に暮らすわけですが、その家が、衝撃的にボロかった…。

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間取りは1K。10畳ほどの部屋に突貫工事で間仕切りをつくり、中年カップルの部屋、僕ら兄弟の部屋を分けました。

トイレ兼シャワー室は中年カップルの部屋にくっついていたので、最初は気まずくて気軽に用を足すことすらできませんでした。
二段ベッドの上段で寝ていた弟は、「目の前(天井裏)でネズミが走るから眠れない」とよく嘆いていましたね。

僕が高校を卒業するまでの4年間を、この家で過ごすわけですが、住めば都とはよくいったもので、こんな地獄でも当時はあまり不満を感じていませんでした。慣れとは怖いものです。

おいおい、お前全然救われてねーじゃねーか。 ヒーローはいつ救ってくれるんだよ。

とお思いでしょうか。ヒーローは、陰ながらずっと戦っていました。

それに僕が気付いたのは、高校2年生の冬休みです。突然、ヒーロー父さんから「バイト代を払うから、仕事を手伝ってほしい」と頼まれました。ヒーロー父さんは、ゴミクズ父さんと同じく、ジュエリーの職人です。

[ジュエリー = ゴミクズ父さん] の図式が出来上がっていた僕にとって、ジュエリーの仕事に就くという考えは微塵もなく、はっきり言って嫌いな職業でした。しかし、赤の他人である僕らのために、身を粉にして働くヒーロー父さんに恩義を感じていましたし、バイト代も欲しかったので、二つ返事で手伝いを了承しました。

そんな軽い気持ちで始めた手伝いですが、これをきっかけに僕はヒーロー父さんを深く知ることになります。

まず、仕事っぷりが見事でした。まるで和風総本家の職人。思えば、一心不乱に働く大人を見たのはこれが初めてだったと思います。

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物心ついた頃から、最も近くにいた大人の男は、仕事をせずに朝からパチンコを打って、酒に酔っては女房子供を殴る人。子供の頃はそれが普通なんだと思っていましたし、自分もいずれそうなるんだろうな。とすら思っていました。

そんな僕の目には、ヒーロー父さんがあまりにも眩しかった。0から商品を生み出し、それによってお金を稼ぐ。さらにはお金を払った側のお客さんから感謝される彼の姿は、まさにヒーローに思えました。

そしてこの頃から少しずつ、ヒーロー父さんの過去を母が教えてくれるようになります。

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母と韓国で出会う前、ヒーロー父さんは知り合いの工房を間借りし、小さな仕事を受けながら日銭を稼ぐ生活を送っていたそうです。
家族もいない、生きる気力もない時に偶然母と出会い、間もなく僕ら兄弟がやってきました。

新しい家族ができたことでスイッチが入ったのか、それからは取り憑かれたように仕事の鬼と化し、怒涛の快進撃を繰り広げます。はじめは少額の、誰もやりたがらない仕事をかき集め、稼いだ日銭を毎日全額、母親に手渡ししていたそうです。

そのお金で、僕ら兄弟は食事をとり、洋服を買い、学校へ通わせてもらっていました。僕が絵を描きたいといえば、画材を買うお金を稼ぎ、弟がドラムを習いたいといえば、レッスンの受講料を稼いでくれました。

自分は露天で売っている5着1000円のTシャツだけを着て、一切の贅沢をせずに、来る日も来る日も仕事だけをしていました。

ヒーロー父さんはひたすら、僕らに与え続けてくれたんです。もはや「マザーテレサ父さん」と改名したいくらいです。

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そして努力に努力を重ね、僕が高校を卒業した直後には、一等地のタワーマンションを購入するほどに成り上がっていました。

マザーテレサもとい、「YAZAWA父さん」ですね。

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気づけば、僕はあんなに嫌っていたジュエリーの世界に魅力を感じ、ジュエリーデザイナーになることを決めていました。

そんな、ようやく前向きになった高校3年生の秋頃のことです。
突然僕の携帯電話に非通知の着信がありました。

「ヨボセヨ」※もしもし
「あ、もしもしい、イ ヒョンギさんですかあ?」
「はい、そうですけど」

日本からの電話でした。聞き覚えのない声、関西弁の男が続けます。

「大阪〇〇署のタナカと申しますけどもお、イ ビョンソクさんってご存知ですかあ?」

ゴミクズ父さんの名前です。心臓が止まったような、跳ねたような。

「父の名前ですけど」

「いやね、お父さん無免許で飲酒運転しはったんですわ。前科もあったから、強制送還することになりましてねえ」

ロイヤルストレートフラッシュ。笑えるほどに、変わっていないようでした。心臓は、まるでしゃっくりをしているようです。

「身元引受人は、息子さんにお願いしたい言うてはるんですけど、同意してもらえますかあ? 書類をいくつか出していただければ、円滑にお送りできますよお」

しゃっくりの間隔は次第に狭まり、バクンバクンと、狂った太鼓のように僕を内側から殴りだします。1発2発と殴られる度、自制心が剥がれていく感覚がありました。

「父に、かわっていただけますか」
「はいい、少々お待ちくださいねえ」

保留音を聴いてる間に自制心は綺麗に剥ぎ取れ、心臓は純度100%の怒りを、瞬く間に全身へ巡らせました。

「久しぶりだな、元気か」

3年ぶりに聴くその声は、あまりにもひ弱で情けなく、憎しみを助長させる調子でした。開口一番、僕は爆発します。

「ふざけんな!」

親に向かって怒鳴ったのはこれが初めてでした。

「父さんがいなくなって、俺達がどんな思いをしながら生きてきたか考えたことある? やっと、まともに生きられる気がしてるんだよ。 お願いだから、邪魔しないでくれよ」

「お前は、俺を誤解してる」

…は?

「見たものだけを信じるよ俺は。とにかく、書類は送らないし、一切手伝う気はないから、自力でなんとかして。もう声聴きたくないから、警察の人にかわってください」

「ちょっとでいいから、話をきいてくれ」

「…」

「あ、もしもしい、お電話かわりましたあ。えっと、書類は"送れない"んじゃなくて、"送らない"のね? この音声も重要な資料になるから、意思を明確に伝えてほしいんですよお」

「はい、送りません」

生まれて初めての、父への反抗でした。

この期に及んで、誤解? どんだけ節操ないんだよ。と電話を切ってからもしばらく怒りの余韻で我を忘れていましたが、冷静さを取り戻すと、大きな不安と恐怖が押し寄せて来ました。

ゴミクズ父さんが同じ国に、近くに、来る。

僕らを見つけ出して、殺しにくるんじゃないだろうか。そんな思いでいっぱいになり、その後の数ヶ月間を、僕ら親子は怯えながら過ごしました。

50手前のメタボオヤジ VS 血気盛んな高校生
体力的には負けるはずがありません。それでも怯えてしまう理由は、トラウマとしか説明できないです。

この頃は音楽を聴きながら街を歩くと、近くで叫ぶおじさんが皆、僕を呼ぶゴミクズ父さんに思え、しばらくはイヤホンを着けることすらできませんでした。

しかしそんな日々が馬鹿らしく思えるほど、時間は平和に流れ、僕らは自然とゴミクズ父さんのことを忘れていました。

僕は無事に高校を卒業し、東京のジュエリー専門学校へ入学します。当時はテポドン級に破壊的な円高で、ソウルの私立大学10年分の学費に匹敵するお金を、ヒーロー父さんが3年間で払い切ってくれました。その3年間があったから、今の僕が在ります。

今僕に備わっているスキル、自信、希望、その全ては、ヒーロー父さんが与えてくれたものです。あの、孤児になりかけていた小汚い少年が、まともな職につき、家庭を持ち、人生に目標を持てるようになったんです。彼をヒーローと呼ばずして何と呼びましょう。

専門学校卒業後は、兵役義務を全うする為に再び韓国へと渡りました。
2012年6月26日、兄弟揃って大韓民国陸軍へ入隊。写真の左が弟、右が僕です。

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軍生活はもちろん大変でしたが、10代の頃に味わった苦しみに比べたら、正直ただのアウトドアでした。ちなみに、僕が扱っていた戦車がこれです↓

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K9自走砲という、韓国で一番火力のある戦車。ほとんどこの中で暮らしていました。 感覚的には、発射機能付きキャンピングカーでしたね。

そんな平穏な軍生活を過ごす中、忘れられない出来事がありました。
2013年9月某日、長期休暇から基地へと復帰するバスの中、母から突然電話がかかってきます。

「あの人(ゴミクズ父さん)が、交通事故で危篤だって」。

すっかり忘れかけていたゴミクズ父さんの存在。電話口で怒鳴り散らしたあの日から、6年が経っていました。

また交通事故?マリオカートかよ。とツッコミたくなる気持ちを抑え、すぐさま直属の隊長へ報告し、急遽休暇を延長して父が入院しているという大学病院へと駆けつけました。

同じく連絡を受けた弟と合流し、兄弟揃って軍服のまま面会へ。
病室の前には、うろ覚えの叔父と叔母が先着していました。

「来てくれてありがとう」叔母は何度もそう言って、泣きじゃくります。

ゴミクズ父さんの病室は、重篤な患者だけが入る特別室でした。面会は一日に2回、30分間だけという規定が設けられているそうです。
ここでようやく気付き始める賢軍人…

あ、これガチでやばいやつじゃん。

おそるおそる、弟と共に入室します。
部屋の奥にあるベッドには、子供がふざけて作ったミイラのような、ギブスと包帯でぐるぐる巻の人が横たわっていました。ミイラには沢山の管が付いていて、それによって命が留まっていることが理解できます。

まるで仮面のように、そこだけが肌色になった部分をのぞくと、忘れかけていたゴミクズ父さんの顔が……!??
半球状に腫れ上がった左目、裂けた口、その他無数の生傷。右目だけは無事で、たまにぱちくりさせては、四方八方に眼球を動かしていました。意識はなく、全ての動きはただの身体反応だそうです。

絶句。

想像を絶する容態に、言葉を失いました。何をどうすればこんなボロボロになれるのか不思議でしたが、事故の詳細を聞いて納得できました。

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高速道路でトラックと衝突しちゃったゴミクズ父さん。シンプルに、シートベルトをしていなかったとのこと。(良い子は絶対にマネしないでね)

衝撃により、全体重と遠心力を味方につけた渾身のヘディングで、フロントガラスをぶち抜いたそうです。メッシもびっくり。

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主治医によると、頭骨の半分を手術で取り除いたとのこと。脳の損傷が大きく、生き長らえたとしても、植物人間になるのが関の山なんだとか。
完全に思考停止した僕は、半ば放心状態でゴミクズ父さんを眺めていました。しばらくすると、違和感に気付きます。 …あれ?

腕が、太い。
腹が、引っ込んでる。
肌が、黒い。

そのどれもが、昔は全くなかったものです。完全に、結果にコミットした体つきになっていました。
強制送還後、ホームレス同然の生活をしているものとばかり思っていたのに、この男は、どうしてこんなに健康的になっているんだろう? 僕が聞くより先に、叔母が教えてくれました。

「5年前から、土方をしてたんだよ」

耳と、自分の韓国語能力を疑いました。土方?あのミラクル怠け者のゴミクズが?いやいやいやいや、ありえないでしょ。だって…

「あんたたちに会いたがってたんだよずっと。すごく。でも、稼がないと会えないんだって、会う資格がないんだって、たまに泣きながら、身を粉にして働いてたんだよ。ほんとだよ」。

なんだそれ。ふざけんな。どんだけズルいんだよあんた。まじでなんなんだよ。それが本当なんだったら、自分の口で言えよ。起きろよ。逃げんなよ。

罵ることも、殴ることもさせないくせに、そのうえ最後の最後まで、痛めつけられたのは僕らの方でした。

ゴミクズ父さんは、どうやら僕らのことを忘れていなかったみたいです。それどころか、愛していたようです。

面会からおよそ1ヶ月後、2013年10月1日にゴミクズ父さんは他界しました。
火葬後に抱えた骨壷の熱さを忘れられません。

まるで体温のようで、父が生き返ったみたいでした。

毎年命日には、墓参りの代わりに父が好きだったタバコと缶コーヒーで一服するようにしています。口いっぱいに広がる臭さで、父を思い出すのです。

そう、父は臭かった。

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父の死から7年が経とうとしていて、僕はそろそろ30歳になります。これまで僕にも様々な出来事がありました。嬉しいことも、苦しいことも。

社会人になり、愛する人と結婚し、一児の父となった今、ゴミクズ父さんについて1つわかったことがあるんです。

事実として父は僕らを罵り、殴り、放棄しました。でも、その全てに悪意はなかった。ただ、不器用なだけだった。ということです。何の根拠もありませんが、確信しています。

叱り方がわからず手を上げ、守り方がわからず距離を置いた。ただそれだけのことでした。きっと父も、苦しかったんだと思います。

ゴミクズ父さんとヒーロー父さん。僕はふたりの父親から、人生の基盤となる大きな学びを得ました。真っ当な人生を送り、愛する人を守ることが、いかに難しいのかを教えてもらいました。
会社を立ち上げた今では、新たな気づきも多いです。

これから永い時間をかけて、ヒーロー父さんには恩を返していきたいですし、ゴミクズ父さんへの愛情を深めていきたいと思っています。

何より、ふたりから渡されたバトンを息子へ伝えられるように、必死に生きます。

めざせ、"ゴミクズを拾うレベル"のヒーロー父さん。

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ご精読、ありがとうございました。

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杉原賢

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ライフスタイルブランド SWITCH DE SWITCHのブランドディレクター。 "ふたり指輪”『CONNECT』という、とってもシンプルな指輪をつくっています。ちなみに元軍人です。