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稲垣明子先生へ

先生、こんばんは。

先生からはじめて、私にメッセージをいただいたのは、たしか大学に合格した時でしたね。あの時、第一志望に受験することさえ許されず、半ば投げやりで受験し、合格した僕に、誰よりもあたたかい言葉をかけてくれたのは、先生でした。

忠彦が存命ならば、これからの教育界のために心強く感じ、どんなに喜んだことでしょう!

僕にとっては、どんな褒め言葉よりも、嬉しかった。有り難かった。そしてそこに、たった一度、数時間だけお会いした、忠彦先生に通じる優しさを感じていました。

大学を卒業するとき、同じコースの友人から、「不本意やったかもしれんけど、この大学のこのコースに入ってくれたことを、心の底から感謝してる」というメッセージカードをもらいました。その言い方は少し盛りすぎかとも思いましたが(笑)、そうやって言ってくれる友人を持つことができたのはあの大学に進んだからだと、そう思っています。そして明子先生があの時の僕に、「残念でしょう」だとか、ネガティヴな言葉を一切向けずにいて下さったことで、そのあと前を向いて進む勇気をどれほど下さったのかと、そう振り返るのでした。

医者の家系に生まれたけれど、長兄と違い職業(専門)が自由に選択できて『幸せだった』と言っていた由です。その話を聞いて、医学から教育学へと関心を向けられた若い学徒の事例に忠彦は喜び、応援し続けることだろうと思いました。

大学入学当時、このお手紙をいただいた時と、今では、また異なった印象でこの一文を読み返します。そして「忠彦は喜び、応援し続けることだろう」と言って下さっていることに、どこか心を落ち着かせ、また奮い立たせる自分がいるのです。

先生はいつも、お手紙を差し上げるたび、返事をくださりました。そしてそこには、必ず忠彦先生が登場しました

忠彦にとっては、最高のクリスマスプレゼントでした。

そうやって喜んでくださったのは、何のお土産もつけずに送ったインドネシアからの絵葉書についてでした。

忠彦には「最上のお年玉」になりました。

そう言ってくださったのは、大学を卒業後、学部の同窓会誌へ寄稿した忠彦先生の記事をお送りした時でした。

明子先生は、僕に時折、忠彦先生の使っておられたものを送ってくださりましたね。忠彦先生の文箱にあったもので、と記してくださった絵葉書も、忠彦先生が東大にいらっしゃった際に同僚であられた先生からいただいたという木のボウルも、僕の手の届くところに置いています。

そうやっていつも、僕が共有することが叶わなかった忠彦先生との時間を、少しでも共有することができるようにという優しさを、「忠彦には」という言葉を、あるいは先生のものを通じて下さっているのだと、今はそう思っています。

そしてそこには、明子先生の、忠彦先生に対する深い愛情と尊敬があるように感じられるのでした。

明子先生には、結局今日まで、お会いすることができていません。どんな方なのだろう、そうやって想像するばかりです。

先生が僕に下さるお手紙からは、物腰の柔らかく、言葉をひとつひとつ丁寧に紡がれる、そんな方なのかなという印象を持っています。お会いしたことがないからこそ、逆に伝わるものがある。そんな気がするのです。

「お守り」として本棚のすみにでも置いていただければと思います

明子先生は、僕にそう言って、忠彦先生の『授業研究入門』を送ってくださりました。僕はそれを文字通り「お守り」にして、大学院の入試の時も、初めての国際学会での発表の時も、カバンに入れて持って行きました。今でも「どんな本を読むのが良いですか?」と聞いてくる人には、必ずこの本を勧めています。いつか僕より若い人たちが、またどこかでこの本との出会いに意味を見出す日が来てほしいと願うからです。

明子先生は、僕に対して、決して偉ぶったり、諭すような言葉を使われません。例年のように送っていただけるシュトレーンに添えられたメッセージカードには、

召し上がっていただくだけで私はうれしいです

と記されていました。同じく、大学院に進学してから初めての冬にいただいたクルミのパンの感想をお礼とともにお送りしたときには、

「クルミパンが好き」と言っていただいてうれしかったです

と記されていました。先生が私に向けてくださる言葉には、忠彦先生と、そして明子先生自身もたくさん詰まっていました。

もしかしたら、このまま、明子先生とはお会いすることがないかもしれません。そのことはとても残念に思う一方で、お会いしなかったからこそ響く言葉、文字だからこそ記すことができた想い、そんなものが今日まで横たわって、積み重なってきたようにも思います

いま、僕にとって大切に思う人は、僕に、言葉の持つ力や、あたたかさを教えてくれている人です。その人に出会うことがなかったら、もしかしたら明子先生の手紙を見返して、こんな風には思わなかったかもしれません。それはそれでとても不遜なこととは知りつつも、同時にそうやって、人との出会いで、同じ景色がこれまでとは違った色を帯びる。それはきっと、医師になることを諦め、教育の道に進むことを決めたあの時、先生が僕に見せてくださった景色と似ているのではないか。そんな風に今は思います。

そして、そんな景色を見せてくれる誰かの存在がとても有り難く、尊いからこそ、僕はその人を愛し、そして明子先生のことを、言葉ではあらわせないほどの不思議な想いで尊敬しているのです。

それは私が祖母に抱く感情とも、どこか似ているようで、異なるのでした。

あの時数時間、食卓を囲んだ忠彦先生との出会いから、人生が動き始めたのかもしれないと思うと、どこか奇妙な気持ちになります。あの時の僕は、将来のことなんてせいぜい来週のことくらいしか具体的に想像できていなかったのですから。

これからも明子先生には、できる限りお元気でいていただきたい、そう願います。それはもしかすると、どこか明子先生の中に、忠彦先生のお姿を見ているからかもしれません。

けれども、その存在が、僕にとっては、この世界に居続ける最も大きな理由なのです。勝手な使命感でも良い。あの時からこうして、忠彦先生や明子先生が下さった出会いの数々がある。

だからこそ、その先を、明子先生に報告させていただければ、と。そう願うのでした。

これからも、どうか、お元気で。

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