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親の期待と、応えられない息子

注)かなりの長文になりますので、お時間のある時にお読みいただければと思います。


ぼくが生まれた時、両親はぼくにどんな期待をかけたのだろう?

父に聞くことはなかったが、少なくとも父の生前、ぼくは父の期待に応えられるようなことは、何ひとつできていなかった。
父は常にやさしく、ぼくの望むことは、ほとんどすべて嫌な顔見せずに叶えてくれました。ぼくの記憶では父に叱られたことは一度もありませんでした。母に言わせると、一度だけ父に叱られたことがあったそうですが、物心ついてからは一度も叱られた記憶はありません。

母にも、どのような期待をかけていたのか聞いたことはありませんし、母からはぼくの将来については、「せめて高校だけは卒業して」ということ以外に、どんな人間になって欲しいとか、そういうことを言われた記憶もありません。

でも、何かしらの期待をかけてくれていたはずですが、何か一つでも母の期待に応えられるようなことができていたのならいいのですが、おそらく期待されたこととは正反対の生き方をしてきてしまっていると思います。

母が何かしらの期待を込めて、習わせてくれたエレクトーンも、2〜3年通いましたが、まったくと言っていいほど上達せずに辞めてしまいました。
その後通わせてくれたスイミング・スクールでは、一通りの泳ぎ方をマスターし、スクールでの1級合格するまでは到達しましたが、その後の選手育成コースへと進まずに辞めてしまいました。

中学校へ進学する頃には、反抗期を迎えており、母に口答えをしても叱られるようなこともなくなりました。そしてその時には気づきませんでしたが、3年間で何度も学校から呼び出され、その度に母は学校まで出向いて担任や学年主任から、ぼくのことで注意を受けていたようです。しかし、母からはそのようなことを一度も聞かされませんでした。


高校に進学しても、ぼくは1学期も終わらぬうちに退学したいと親に告げ、一応学校へは行くものの、授業には付いて行けず、まともに授業を受けることもしなくなり、受け落ちこぼれていきました。
入学したのが、理数系特進クラスだったため、通常の1日6時限の授業の前後に、0時限授業と7時限授業があり、朝は普通コースの生徒より1時間早く登校し、帰れるのは7時限授業のまとめの小テストに合格してから、というかなりハードな日々でした。もともと、理系に向いていなかったこともあり、授業について行けず、最後の小テストもなかなかクリアできず、ようやく解放される頃には、もうすでに日は落ち、家に帰り着く頃には8時9時を過ぎていることが当たり前になっていました。

そのような日々に嫌気がさして、両親に退学したいと訴えますが、当然聞き入れてもらえるわけもなく、ぼくは、一応毎日学校へは通学してましたが、0時限授業と7時限授業はボイコットするようになっていました。
当然、毎日担任教師からは職員室への呼び出しを受けるようになり、生活指導の体育教師からも目をつけられるようになっていきました。

そして、これも後になってから知ることになるのですが、両親も学校から呼び出され、何度も学校側と話し合いをしていたようでした。ぼくはというと、そのようなことになってるとは思いもせずに、中学時代の仲間と遊び歩いていました。

そして1学期が終わる頃に、母から「2学期から普通コースへ編入させてもらえることになったから、ちゃんと高校だけは卒業して」と告げられたのです。

両親は、高校から呼び出される中で、学校側へなんとか普通コースへ編入できないかと、何度も頭を下げお願いし続けていたそうです。学校側は、今までそのような例はないし、許可して、これから同じようなことを言う生徒が増えては困るので、認められないと、返答したようですが、その後も父が何度も学校へ訪れ、頭を下げ続けたので、学校側も今回だけの特別な処置として、2学期からの普通コースへの編入を認めたそうです。

そのような経緯をまったく知らないぼくは、普通コースならと、軽い気持ちで2学期からも学校へ通うようになりました。
ぼくが周囲に撒き散らす迷惑を、両親はぼくの気づかないところで、すべて拾い集め、周囲にぼくの代わりに頭を下げて回ってくれていたのです。

父はフリーランスで仕事をしていたので、会社勤めの方よりは時間の融通は効いたかもしれません。その頃の父は、取引先の近くにある、知人の写真スタジオの一角を借りて、そこを仕事場として通っていました。しかし、そのスタジオを閉める時間になると、その日の終えられなかった仕事を家に持ち帰り、家でも深夜まで仕事をしていました。睡眠時間も1日4〜5時間あったかどうか。もちろん、土日も家でほとんど朝から深夜まで仕事をしていました。
ちょうどバブル景気の頃だったので、依頼される仕事も多かったのかもしれませんが、おそらくぼくの私立高校での授業料と3歳下の妹のこれから必要になる学費を稼がないといけないということもあって、より多くの仕事を請け負っていたのだと思います。
なので、ぼくの学校まで何度も足を運ばせたことで、仕事の納期に間に合わせるため、寝る間も惜しんで仕事に追われていたのだと思います。


その後も、ぼくは、家の経済状況など考えもしていなく、関東の私立大学へ進学します。
当時の私立大学文系学部では、初年度で約100万。2〜4年次で年間約7〜80万円の学費が必要でした。それに加え、関東でのぼくのアパートの家賃約8万円に生活費の仕送り。かなりの負担だったはずです。
妹は、頭も良かったので、地元の県立高校へ自転車通学でしたので、それほどの負担にはならなかったと思います。

そして、ぼくが大学3年、妹が高校3年の時に、バブルがはじけます。
トヨタ関連の企業の孫請けの孫請けのような形で仕事をもらっていた父は、かなりのダメージを受けました。
妹は東京の看護大学を志望していましたが、諦めざるを得ず、結局は県内の公立の看護短大へと進学することになります。

ぼくはというと、当然就職活動を始めなくてはならないのですが、企業も新卒採用枠を削減しており、100社近く募集要項等の資料請求をしても、資料が送られてきたのは、中央出版の1社のみ。他社からはおそらく大学名で対象外とされていたのでしょう。大学の就職課も対応に追われ、なかなか求人を見つけることができず、父も仕事のツテを辿って、話しをしてくれていたようですが、どこからも色良い返事はもらえませんでした。

その時の父は、もうすでに多重債務が重くのしかかっている状態でした。それを母から聞いて、その時になってようやく、自分の家の経済状況が逼迫していることに気付かされました。

大学4年のぼくは、卒業要件の単位数を後1科目4単位を残すだけだったので、その年の6月に関東のアパートを引き払い、実家へ帰ることにしました。

3年ぶりに家族4人が揃っての生活が再開するのですが、3年前とは違い、母はそれまでパートへ出ることはなかったのですが、家政婦のパートを初めており、妹の近所の大型スーパーでアルバイトをしていました。父はというと、以前のように深夜まで仕事に追われることがなくなり、毎朝出勤するのですが、仕事の依頼が激減し、方々へ仕事を求めて頭を下げて回っていたようです。

そのような状況の中、ぼくも妹と同じ大型スーパーでアルバイトをしながら、就職先を探すのですが、実家からでは学校の就職課を頼ることもできず、もう7月になっていたので、どこの企業もすでに選考に入ってしまっていました。

そんな中、一人で家にいる時に電話が鳴ったので出ると、サラ金業社からの督促の電話でした。相手は、ぼくが長男であることを知っていたようで、「お兄ちゃん、家のこと家族でちゃんと相談しないかんよ。」と言われたのを今でもはっきりと覚えています。

そして、大学4年の後期が始まる時期になり、後期分の約30万円の学費の納入期限が近づいてきていました。
ぼくは、大学を中退すると言いましたが、両親とも「心配しなくても大丈だから」というだけで、聞き入れてもらえません。すでに大丈夫な状況ではないことは明白でしたが、父はなんとかそのお金を工面して支払ってくれました。

おかげで、ぼくはなんとか大学を卒業することができましたが、結局、就職浪人となってしまっていました。


余談となりますが、ぼくが大学4年の後期の試験が始まる日、試験を受けるために関東へ向かうはずでした。
その日は、1995年(平成7年)1月17日。
そうです、阪神淡路大震災が起こった日です。ぼくの住む地域でも、明け方大きな揺れがあり、目を覚ました記憶があります。そして、朝のニュースで大変な状況になっているのを見ながら、関東へ行くための準備をして駅まで出かけたのですが、新幹線はストップしており、再開の目処は立っていないということでした。
なので、その日の午前に予定されていた、後期の試験は受けれそうにありませんでした。その3日後に、あと2科目試験を受ける予定でしたので、そのうちどちらかで合格点がもらえれば、ギリギリ卒業要件の単位数になります。なので、すぐにみどりの窓口へ行き、3日後の切符へ変更することができました。
そして、なんとか卒業することができました。もし、これで卒業できなかったとしたら、無理をしてまで授業料を工面してくれた両親にもっと悲しい思いをさせてしまっていたでしょう。


おそらく、もうこの頃には、父は肺がんになっていたのだと思います。振り返ってみれば、うつ病であった可能性も非常に高いと思います。
父の死後、遺品を整理している時に、母から渡されたのですが、自殺を考えて書いた父の遺書がありました。結局、病気が発覚して入退院を繰り返すこととなり、自殺することはありませんでしたが、父はそこまで追い込まれていました。

そして、父の死後に弁護士の方より、父の自己破産の決定通知が送られてきました。


結局、父がぼくに対し、どのような期待を込めていたのかは分かりませんが、おそらく何ひとつ期待には応えられず仕舞いでした。
無理をしてまで、大学を卒業させてもらったにも関わらず、就職できず。その後、就職したと思ったら、半年で辞めてしまう。
こんなぼくを、父はどのように思っていたのでしょうか?

「自分の行きたい道を行けばいいよ」
そう言ってくれた父の気持ちを、少しでもぼくがしっかりと受け止められていたら、少しは期待に応えられたのかもしれません。

今のぼくの現状を、父はどのように感じているのでしょうか…?

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