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30年日本史00570【鎌倉前期】範頼粛清*

 曽我兄弟の仇討ち事件は、思わぬ偶然から源範頼の失脚という結果をもたらすこととなりました。
 前述したとおり、鎌倉で留守を守る政子のもとに、一時、
「鎌倉殿が討たれた」
との虚報が入りました。悲嘆にくれた政子に対し、傍に仕えていた範頼が
「ご安心ください。いざというときは私がおります」
と述べました。このことが後に、「範頼は謀反を企んだ」と糾弾されることになってしまうのです。
 頼朝の怒りを聞いた範頼は、建久4(1193)年8月2日、忠誠を誓う起請文を頼朝に送りました。ところがこれが思わぬ逆効果を生んでしまいます。範頼はその起請文の中で、何気なく「源範頼」という姓を名乗ったのですが、頼朝はこれに「過分な自称である」と言って怒ったのです。
 以前も説明しましたが(00555回参照)、この時代、姓と苗字は異なる概念です。「姓」とは天皇からいただいた名で、「苗字」とは居住する地域などを自ら名乗るものでした。例えば足利尊氏は足利荘(栃木県足利市)を領地とする家で生まれ育ったので、「足利」という苗字を名乗っていますが、征夷大将軍として文書を発出するときは「源尊氏」という姓名を名乗っています。
 源氏の中でも嫡流やそれに準ずる家系ならば「源」の姓を名乗ることが許されますが、庶流(母親の身分が低い家系)は適当な苗字を名乗ることとなります。範頼については、現在教科書などでは「源範頼」と呼ばれていますが、義朝が遠江国池田宿(静岡県磐田市)の遊女に産ませたとされている子で、遠江国蒲御厨(かばのみくりや:静岡県浜松市)で生まれ育ったため、当時は蒲冠者(かばのかじゃ)と呼ばれていました。「蒲御厨範頼」などと名乗っておけば無難だったかもしれません。
 名乗りをめぐって頼朝をさらに怒らせてしまった範頼はひどくうろたえました。8月10日夜、頼朝は寝所の下に何者かが潜んでいる気配を感じ、結城朝光(ゆうきともみつ:1168~1254)に曲者を捕らえるよう命じました。
 果たして、捕らえられたのは範頼の家人・当麻太郎(たぎまのたろう)でした。範頼は、どうすれば頼朝の勘気を緩めて許してもらえるかを考えるため、家人に頼朝の様子を探らせていたのでした。
 いよいよ範頼の謀反は疑いないと確信した頼朝は、8月17日に範頼を伊豆国に流罪としました。伊豆国修禅寺(静岡県伊豆市)に幽閉された範頼は、その後殺されました。現在、修善寺温泉の温泉街の片隅に範頼の墓が設けられています。

修禅寺から徒歩十数分のところにひっそりと建つ範頼の墓。竹林を楽しみながら歩いていける。

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