じゃがいもさん

「じゃがいも」と申します。 「じゃがいも」は少しだけお寺、仏像、仏教が好きなオッサンで…

じゃがいもさん

「じゃがいも」と申します。 「じゃがいも」は少しだけお寺、仏像、仏教が好きなオッサンです。

最近の記事

「じゃがいも」のお寺話64 宗派

日本の仏教の宗派を調べると現代では13宗と出てきます。 1.法相宗、2.華厳宗、3.律宗、4.天台宗、5.真言宗、6.融通念仏宗、7.浄土宗、8.浄土真宗、9.時宗、10.臨済宗、11.曹洞宗、12.黄檗宗、13.日蓮宗 奈良時代には南都六宗と呼ばれる法相宗、華厳宗、律宗、三論宗、倶舎宗、成実宗という6つの宗派があったとされます。後ろの3つの宗派は現代の13宗には数えられていません。 また、浅草寺は聖観音宗、法隆寺は聖徳宗、清水寺は北法相宗、西大寺は真言律宗、鞍馬寺は鞍馬

    • 「じゃがいも」のお寺話63 平和観音

      北海道大観音 1989年 釜石大観音 1970年 仙台大観音 1991年 会津慈母大観音 1987年 高崎白衣大観音 1936年 東京湾観音 1961年 うさみ大観音 1982年 加賀大観音 1988年 救世慈母大観音 1973年 大本山小豆島大観音 1995年 大船観音 1960年 全てかは分からないですが、調べた限り日本に現存する大きな観音様は上になります。 高崎白衣大観音が突出して古く、1936年(昭和11年)は太平洋戦争の開戦前です。他は全て戦後に建立されました。

      • 「じゃがいも」のお寺話62 神仏分離

        神仏分離(しんぶつぶんり)とは仏教の教えに従って建立されたお寺や仏像と、神道に従って建立された神社や神様を明確に分けることです。 明治まで仏教と神道つまりお寺と神社は共存していました。神仏習合や神仏混淆と呼ばれています。  天皇の王位継承で宮中行事を行う場合など特定の状況で仏教ゆかりの仏像などを分けたいとする議論があり神仏分離や仏教排除の指示は昔からあったようです。大きな意味ではこうした思想も神仏分離とは言えますが、一般に神仏分離という場合、明治政府が王政復古、祭政一致、神

        • 「じゃがいも」のお寺話61 木喰

          木喰仏という仏像がとても有名だと思います。円空仏と並び日本中に広く残っています。独特の笑みを浮かべた表情が特徴で「微笑仏」(みしょうぶつ)と呼ばれます。とてもほっこりする優しい雰囲気の仏像が木喰仏です。 当たり前ですが、木喰が彫った仏像なので木喰仏です。木喰は円空と同様に僧侶であり各地を遊行しながら遊行先で仏像を彫る仏師でもあります。 今でも約600体の木喰仏が日本の広い範囲に残っいるようです。 木喰(1718年〜1810年)は山梨県の身延の生まれです。一部に1728年生ま

        「じゃがいも」のお寺話64 宗派

          「じゃがいも」のお寺話60 円空

          円空仏という仏像がとても有名だと思います。可愛らしく味わい深い独特の雰囲気をもった仏像が円空仏です。当たり前ですが、円空が彫った仏像なので円空仏です。円空は僧侶であり各地を遊行しながら遊行先で仏像を彫る仏師でもあります。 今でも5000体を超える円空仏が日本の広い範囲に残っているようです。現在確認できている円空仏が約5000体なだけで、円空が彫った仏像は12万体とも伝わります。 12万÷365日=328年 1日1体毎日仏像を彫って328年かかります。本当でしょうか。12万体

          「じゃがいも」のお寺話60 円空

          「じゃがいも」のお寺話59 黄檗宗

          江戸時代初期に中国の明(〜1644年)が滅亡しました。明の滅亡末期の混乱から逃れるために多くの中国人(華僑)が長崎に渡来しました。明の特に福建省から渡来した僧侶を受け入れ、興福寺、福済寺、崇福寺(長崎三福寺)(1624年〜1629年)が長崎に建立されました。 こうした中国の状況がきっかけとなり江戸時代初期に中国から新しい仏教の流入がありました。 明から長崎に渡来した僧侶により建立された崇福寺の住職に空きが生じたため、その時の興福寺の住職より長崎に来るように依頼された僧侶がい

          「じゃがいも」のお寺話59 黄檗宗

          「じゃがいも」のお寺話58 江戸時代の仏教

          江戸幕府は浄土真宗と仲良くする方針でした。 他の宗派に対してはどうだったのでしょうか。江戸幕府が国を支配するようになってから仏教界全体に対して上手く付き合っていく、如何にも「優秀な政治家」である徳川家康らしい体制を築きます。 この江戸時代の仏教の体制が現代の仏教界の体制に直接影響していると思います。現代の仏教で、何で?と思うルールがあるとしたら仏教の本質的な教えとはあまり関係なく、江戸幕府の都合で決まったルールかも知れません。 江戸幕府の仏教界に対しての考え方は以下です。

          「じゃがいも」のお寺話58 江戸時代の仏教

          「じゃがいも」のお寺話57 西本願寺と東本願寺(3/3)

          本願寺が京都に移った1年後(1592年)顕如が急に亡くなります。長男の教如が本願寺の後継者に決まり豊臣秀吉も認めます。 しかし顕如の妻の如春尼が顕如の遺言が見つかり、三男の准如が後継者であると主張します。豊臣秀吉は申し出を無下にせず教如、准如、如春尼の3名に会って話し、長男の教如が後継者になったばかりなので、あと10年はこのまま長男の教如が後継者となり、10年経ったら三男の准如に宗主を譲ることを提案し1回は3名とも合意しました。後に教如の側近が遺言は偽物であり10年の期限は無

          「じゃがいも」のお寺話57 西本願寺と東本願寺(3/3)

          「じゃがいも」のお寺話56 西本願寺と東本願寺(2/3)

          石山合戦を始めた織田信長に反発した本願寺の門徒が各地で一揆を起こしました。三重県桑名の辺りでは長島一向一揆と呼ばれる大規模な一揆が起きたようで、織田信長は弾圧のために子供や女性なども含めて大量に本願寺の門徒を殺したとも伝わります。 石山本願寺が建つ場所が街作り城作りの良い条件が重なる場所で、織田信長は石山本願寺の場所がどうしても欲しかったようです。浅井朝倉の討伐、一揆の鎮圧を進めた織田信長は一旦休戦をしていた石山本願寺を再度攻め始めました。 織田信長は石山本願寺の周囲を取り

          「じゃがいも」のお寺話56 西本願寺と東本願寺(2/3)

          「じゃがいも」のお寺話55 西本願寺と東本願寺(1/3)

          西本願寺と東本願寺は、西本願寺派なのか東本願寺派なのかという違いはあっても同じ浄土真宗と感じています。西でも東でも本願寺というお寺名称から来るイメージの錯覚なのでしょうか。 西本願寺は「浄土真宗本願寺派」の本山、東本願寺は「真宗大谷派」の本山とされます。他の宗派とはちょっと違うように思います。真宗と浄土真宗は違うのでしょうか。 今の浄土真宗は16派とも10派とも言われますが浄土真宗の門徒数の49.093%が浄土真宗本願寺派、48.296%が真宗大谷派で、残り約3%の門徒を14

          「じゃがいも」のお寺話55 西本願寺と東本願寺(1/3)

          「じゃがいも」のお寺話54 僧兵(2/2)

          天台宗では延暦寺の山門派と、園城寺(三井寺)の寺門派に分裂し「山寺両門の争乱」「山門寺門の争い」などと呼ばれる抗争が長年にわたり続きました。天台宗の僧侶同士がお互いのお堂を焼き討ちし合うような争いをしています。 平安末期に平家が台頭し、南都の寺院が長年所持していた特権を無視して取り締まるようになりました。東大寺や興福寺は真っ向から平家に反発し武力に対して武力で応戦したため一般に言う平家の「南都焼き討ち」(1181年)が起きることになります。東大寺と興福寺はそのほとんどの建物

          「じゃがいも」のお寺話54 僧兵(2/2)

          「じゃがいも」のお寺話53 僧兵(1/2)

          今のお寺からはイメージしにくいですが、平安末期くらいから一部の大きな寺院には僧兵と呼ばれる僧侶の姿をした武装集団がいたようです。 公にあまり伝わっていないように思いますが、朝廷や時の権力者でも思い通りにならない武力を持っていたようです。 平安時代の末期から鎌倉初期には興福寺、東大寺、延暦寺、園城寺(三井寺)などの大寺院には強大な武装集団がいたとされます。 武蔵坊弁慶は本当に実在したのかわからない部分がたくさんあるようですが、鎌倉時代の歴史書である吾妻鏡には名前は出てくるよう

          「じゃがいも」のお寺話53 僧兵(1/2)

          「じゃがいも」のお寺話52 鎌倉仏教

          奈良仏教、平安仏教という言葉もあるのでしょうが、鎌倉仏教という言葉を一番聞くように思います。気のせいでしょうか… 奈良仏教、平安仏教、鎌倉仏教という言葉が、単に、奈良の時代の仏教、平安の時代の仏教、鎌倉の時代の仏教というだけであれば、室町仏教、戦国仏教、安土桃山仏教、江戸仏教という表記も同じようにあって良いように思いますが、かなり馴染みが薄い気がします。自分が無知なだけかも知れませんが。 奈良時代は官寺を主体とした朝廷の管理による仏教組織でした。南都六宗を「奈良仏教」と表

          「じゃがいも」のお寺話52 鎌倉仏教

          「じゃがいも」のお寺話51 運慶、快慶

          運慶(?-1224)は日本一有名な仏師と言っても嘘ではないと思っています。 生まれ年が分からないようですが、運慶作った初の仏像と言われる円成寺の大日如来坐像は1175年の製作で、20歳代の作品と推定されています。仮に25歳の作品だとしたら1150年生まれで74歳まで生きたと想定できます。概ねそんな期間に活動したと思われます。 快慶は運慶と並び有名な仏師だと思います。生没年不詳とされます。 現存する快慶の作品で一番古いのはボストン美術館の弥勒菩薩で、1189年の製作とされてい

          「じゃがいも」のお寺話51 運慶、快慶

          「じゃがいも」のお寺話50 仏師の系図

          平安時代の公家の文化に末法の思想も後押しをしてお寺が建立されて仏像が多く作られるようになりました。そんな時代の流れに求められて定朝という仏師が評価され藤原道長に支えられ活躍の場を与えたのだと思います。 定朝から仏師の系図が作れるようになったと言われます。 日本の仏教は時の権力者により抑制され、弾圧され、復興され、利用されながら歴史を刻んで行きました。政治が宗教と縁を切ったのは昭和20年以降のことです。 仏師も政治の一部に取り込まれながら、繁栄し仏像を作るようになって行ったと

          「じゃがいも」のお寺話50 仏師の系図

          「じゃがいも」のお寺話49 定朝

          桓武天皇が794年に平安京に都を遷都してから1185年に源義経が壇ノ浦で勝利し平家が滅び、源頼朝が鎌倉に幕府を興すまでの約390年間もしくは784年に平城宮から長岡京に都を遷都してからの約400年間を平安時代と呼びます。およそ9世紀〜12世紀。 平安時代は天皇を政治の中心とする体制であり、公家の時代であり、藤原家、平家が政治を仕切った時代です。 仏教では、お釈迦様が説いた教えが正しく伝わり修行して悟りを開く僧侶がいる「正法」の時代が過ぎると、真摯に修行をせず悟りを開くまで至

          「じゃがいも」のお寺話49 定朝