見出し画像

「じゃがいも」のお寺話59 黄檗宗

江戸時代初期に中国の明(〜1644年)が滅亡しました。明の滅亡末期の混乱から逃れるために多くの中国人(華僑)が長崎に渡来しました。明の特に福建省から渡来した僧侶を受け入れ、興福寺、福済寺、崇福寺(長崎三福寺)(1624年〜1629年)が長崎に建立されました。
こうした中国の状況がきっかけとなり江戸時代初期に中国から新しい仏教の流入がありました。

明から長崎に渡来した僧侶により建立された崇福寺の住職に空きが生じたため、その時の興福寺の住職より長崎に来るように依頼された僧侶がいました。後に、黄檗宗の開祖と呼ばれる隠元隆琦(いんげんりゅうき)(1592年〜1673年)です。禅宗の僧侶なので隠元禅師と呼ばれています。
隠元禅師は明では臨済宗を代表する僧侶で、中国福建省福州府福清県にある黄檗山萬福寺の住職でした。

最初の渡来の要請に対しては弟子を長崎に送りましたが船が座礁して不運にも亡くなってしまいました。その後、隠元禅師本人が長崎を目指しましたが、何度か失敗してしまい明の有名な軍人が製作した船に乗り20人を超える弟子と共にやっと長崎にたどり着いたと伝わります。(1654年)その時、隠元禅師は63歳でした。

龍渓性潜という妙心寺で修行僧を統率する役割である首座(しゅそ)を務めたこともある僧侶が隠元禅師の弟子になります。隠元禅師の人柄に魅了されたのでしょうか。
隠元禅師は3年くらいを期限にして中国に帰るつもりだったようですが、龍渓性潜が縁のある普門寺(大阪府高槻)に隠元禅師を招いて(1655年)住職としました。隠元禅師は結果として萬福寺を開くまで7年あまり普門寺住職を務めました。
江戸幕府は仏教の宗教的活動に対して監視していて、普門寺での隠元禅師の活動に対して外出禁止など指示があったようです。過剰な信徒の増加でトラブルの火種になるなどの予防策なのかと思います。
龍渓性潜が隠元禅師を普門寺に招いたことで元々臨済宗妙心寺派のお寺が臨済宗黄檗派と派を変える結果となります。妙心寺とはかなり揉めた記録もあるようです。

龍渓性潜が尽力をしたようですが、隠元禅師は京都宇治の地を与えられ、お寺を開く事になります。(1661年)  明で住職を務めていたお寺と同じ黄檗山萬福寺(おうばくざんまんぷくじ)と名付けました。
隠元禅師は臨済宗の僧侶なのですが、明の時代の臨済宗の様式と栄西から始まる日本の臨済宗の様式はかなり異なっていました。萬福寺の創建当初は臨済宗の正統派の禅を伝えるという意味を込めて臨済正宗や、臨済禅宗黄檗派としていました。明治時代の新しい仏教の体制の中で黄檗宗という一つの宗派と認められることになります。

隠元という名前から容易に想像できますが隠元禅師が「インゲン豆」を日本に伝えたと言われています。
その他にも、西瓜、蓮根、筍(たけのこ 孟宗竹)、煎茶や中国様式の精進料理「普茶料理」など現代にも残るたくさん文化を黄檗宗の仏教様式と合わせて持ち込んで広めたとされます。木魚の原型と言われる開梆(かいぱん)や椅子やテーブルや原稿用紙も隠元禅師が日本に持ち込んで広めたとの話ですが…。

上手く伝えられないので是非とも黄檗宗のお寺に行って建物や仏像を拝観していただきたいです。中国様式と言えば良いのか、和のテイストとは違う、だけどお寺であると言う独特の雰囲気は新鮮です。
この時代の中国と日本の関係は現代よりもはるかに友好的だったのでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?