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「じゃがいも」のお寺話56 西本願寺と東本願寺(2/3)

石山合戦を始めた織田信長に反発した本願寺の門徒が各地で一揆を起こしました。三重県桑名の辺りでは長島一向一揆と呼ばれる大規模な一揆が起きたようで、織田信長は弾圧のために子供や女性なども含めて大量に本願寺の門徒を殺したとも伝わります。

石山本願寺が建つ場所が街作り城作りの良い条件が重なる場所で、織田信長は石山本願寺の場所がどうしても欲しかったようです。浅井朝倉の討伐、一揆の鎮圧を進めた織田信長は一旦休戦をしていた石山本願寺を再度攻め始めました。
織田信長は石山本願寺の周囲を取り囲み兵糧攻めにしました。石山本願寺側も応戦しました。再度石山本願寺を攻め始めて3年程の長期戦になり、お互い相当な消耗をしたので織田信長側から和睦の提案がなされました。
織田信長をしても落とせなかったのが石山本願寺です。
•仏教集団であるが故の結束力の強さ
•比叡山や長島一向一揆での織田信長の振る舞いに対する反感
•織田信長に屈することで親鸞から始まる浄土真宗の教えが途絶えることへの危機感
石山本願寺が強かった理由との説明があります。

宗主の「顕如」と三男「准如」は和睦の受け入れを主張しましたが、長男「教如」戦の継続を主張しました。
宗主の顕如が和睦を進めたため石山本願寺は信長に明け渡されます。結果として長男の教如と三男の准如が対立し、教如は本願寺から追い出された形になりました。

織田信長は本能寺の変(1582年)で亡くなります。変わって豊臣秀吉が政権担います。
織田信長を苦しめた本願寺を敵に回すのは得策ではないと考えていた豊臣秀吉は本願寺とは仲良くしました。
対立はありつつも、本能寺の変をきっかけに教如と准如は和解をしました。

豊臣秀吉と徳川家康の間の関係も微妙になっていた時期で徳川家康も本願寺を敵にはしたくないと思っていました。
徳川家康は豊臣秀吉と真っ向から敵対した場合、本願寺も敵になるのは避けたいと思い、顕如や教如に近づきます。三河の街は過去の一向一揆以来、浄土真宗の活動を禁止していましたが浄土真宗の活動を緩和しました。本願寺に石山本願寺の土地を返す相談もしたようですが、その時は豊臣秀吉の顔色を見て顕如はその申し出を断りました。それが豊臣秀吉に伝わり、徳川家康に加担せず豊臣秀吉への忠誠を示したお礼として大阪の天満に土地を与えました。大阪の天満に本願寺が建立されます。(1585年)

関白(1585年〜)になった豊臣秀吉は応仁の乱(1477年)からの京都の街の復興を進めます。街作りに利用する意図もあり、京都の七条堀川に本願寺を移す計画をします。本願寺側も快諾し京都に本願寺が建立(1591年)されます。今の西本願寺の場所です。

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