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「じゃがいも」のお寺話53 僧兵(1/2)

今のお寺からはイメージしにくいですが、平安末期くらいから一部の大きな寺院には僧兵と呼ばれる僧侶の姿をした武装集団がいたようです。

公にあまり伝わっていないように思いますが、朝廷や時の権力者でも思い通りにならない武力を持っていたようです。
平安時代の末期から鎌倉初期には興福寺、東大寺、延暦寺、園城寺(三井寺)などの大寺院には強大な武装集団がいたとされます。
武蔵坊弁慶は本当に実在したのかわからない部分がたくさんあるようですが、鎌倉時代の歴史書である吾妻鏡には名前は出てくるようです。我々がイメージするような弁慶は架空の人物かも知れませんが、比叡山の僧兵であったとされています。

お寺や神社は最初は特権的な意味合いで給付された荘園や自力で開墾した田畑(寺田、神田)を所有していました。公家や大名と同じように所領を持っていたということです。
常に平和で朝廷の政治的な立場も盤石であり、決まったルールに従っていれば争いごとがなく安泰であれば武装は不要でしょうが、小さな盗人から大規模な武力行使、朝廷や公家からの権力に任せた無理な要求に対して自分達の所領を守り、さらには増やしていく必要が自然に出てきたため寺社には武装集団が必要になっていったと思います。大寺院であればあるほど大規模な武装集団が必要になっていったのは理解しやすいです。
最初は所領の防衛のためだったのでしょう。現代の軍備でも全く同じですが、隣の寺社の武装が自分達より勝っていたら不安になり結局は武力の争いになり大規模な武装集団ができあがってしまったのだろうと思います。

大規模な武装集団を持つ大寺院は朝廷や位の高い公家に対して自分達に都合の悪いルールは跳ね除けて都合の良いルールに変えさせようとします。
自分達に都合の良いルールが隣の大寺院にとっても都合が良いとは限らないのでお寺同士の争いが常に起こっていくようになります。

全てがそうだとは言いませんが、あるべき姿とはかけ離れた立ち振る舞いをした僧侶が増えて公家や武士から尊敬されるような関係が崩れて単なる敵対関係になってしまっていた側面もあると思います。
比叡山焼き討ち(1571年)は有名で織田信長の非道さが強調されて伝わり気味ですが、織田信長側からすると敵である浅井朝倉の軍をかくまう比叡山に対して、浅井朝倉を引き渡せば比叡山は攻めないと再三の忠告をしたのに比叡山側が無視し続けたために攻めただけとも言えそうです。
いくら織田信長でも、この神聖な比叡山には攻めては来ないだろうと安易に考えていたとも言われます。織田信長からすると仏教を否定したい訳でもなく、道理が通らないから焼き討ちしただけなのでしょう。

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