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「じゃがいも」のお寺話57 西本願寺と東本願寺(3/3)

本願寺が京都に移った1年後(1592年)顕如が急に亡くなります。長男の教如が本願寺の後継者に決まり豊臣秀吉も認めます。
しかし顕如の妻の如春尼が顕如の遺言が見つかり、三男の准如が後継者であると主張します。豊臣秀吉は申し出を無下にせず教如、准如、如春尼の3名に会って話し、長男の教如が後継者になったばかりなので、あと10年はこのまま長男の教如が後継者となり、10年経ったら三男の准如に宗主を譲ることを提案し1回は3名とも合意しました。後に教如の側近が遺言は偽物であり10年の期限は無効だと文句を言いました。豊臣秀吉はトラブルを避けるための譲歩案まで出して直接話して結論も出ているにも関わらず文句を言ってきた長男の教如を即時引退させて三男の准如をすぐに宗主にするように命じました。

豊臣秀吉が(1598年)に亡くなります。
関ヶ原の戦(1600年)で勝利すると徳川家康は長男の教如を本願寺の宗主に戻そうと考えるようになります。本願寺との一切の敵対構造を避けたいと考えていたと思われます。

本願寺内部が敵対しているのでどちらかを立てたらもう一方からは反発が来ます。
長男の教如を本願寺の宗主に戻すのではなく、京都に同規模の別の組織としてお寺の運営が可能なように土地を与えお寺の建立を認めます。(1602年)
教如と准如のお互いが牽制しあって力が相殺する効果はあるでしょうし、1つの莫大な組織より中規模の組織が2つの方が扱い易いでしょう。

本多正信のアイデアと聞きますが、如何にも考えそうです。准如の反発が全く無かった訳ではないでしょうが、自らの立場は一切犯されてはいないので強行に反発できないでしょう。後から徳川家康が教如のために建てたのが今の東本願寺になります。
元々あった本願寺のすぐ近くの東側にもう1つほとんど同じ規模の本願寺ができたので東本願寺と呼ばれ、元々あった本願寺が西本願寺と呼ばれるようになったようです。

西を無下にしてなく両方ともを優遇しているので文句は言いにくいでしょう。
ただし、全国の浄土真宗の門徒は大混乱したようです。顕如の正式な後継者は長男の教如なのか、遺言に示された三男の准如なのか。どちらかを選ばないとならず江戸時代の初期の浄土真宗は西と東の門徒の奪い合い勧誘合戦が続きました。この混乱こそが徳川家康の想定通りなのかも知れません。
現代はそれほど仲は悪くないようですが当時は浄土真宗の門徒を取り合う関係なので西と東は仲が悪くなったようです。
一例ですが、細かいところで、仏壇の柱が金箔なら西、柱が黒塗りなら東。花立、香炉、ロウソク立が黒系なら西、金色なら東などの違いがあるようです。
正直本質とは関係ない話に思えますが、西とは違うんだ。東とは違います。と言いたいので細かい違いができてきたのかなぁと思います。

最終的には徳川家康という「優秀な政治家」の思惑により西と東が分かれました。
日本の仏教が時の権利者に翻弄されながらも保護もされて歩んできた歴史がありますが、とても分かりやすく、とても象徴的な出来事だと思っているので少し細かく説明しました。

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