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お笑い芸人『サンドウィッチマン』人気の理由②

前回の記事の続きです。

12.『M-1グランプリ2007』優勝

M-1最終決戦はサンドの看板ネタの一つ『ピザのデリバリー』

『M-1グランプリ2007』最終決戦は、審査員一人一人が、優勝と思う漫才師に記名制で投票する。
審査員7名中『オール巨人』、『上沼恵美子』、『松本人志』、『島田紳助』
この4名が『サンドウィッチマン』に投票。

サンドの優勝が決定した。

面白いのは、サンドに投票した4人の審査員は全員、
オーソドックスなネタを好む、関西出身芸人ばかりだったこと。
逆に東京芸人であるこの時の審査員
『大竹まこと』と『ラサール石井』は、サンドに入れなかった。

島田紳助:「敗者復活組に優勝は無い。もし優勝するなら圧倒的な力を見せつけなければならない。
しかし彼らは本当に圧倒的だった」

13.2011年3月11日『東日本大震災』発生

2011年3月11日 サンドは、たまたまロケで気仙沼にいた。
そのため、現地の津波と火事の間近で彼らも実際に被災した。

この経験からサンドは、表に立ってきちんと声を出してあの大震災を伝えていこうと決めた。

伊達みきお:「宮城の人間だし、動かないわけにはいかないだろ!」という気持ちでいっぱいだった。

東京のドン・キホーテで山ほど物資を購入し、被災地に持っていくと、
現地の被災者の方に『何しに来たんだ!』と怒鳴られ、追い返された時もあった。

支援活動に本気になったら、テレビのバラエティ番組から求められなくなるだろうという危機感もあった。
それでも、
『お笑い芸人として3年くらい、いい思いができたから、この先干されてもいいや』
そう思いながら、支援活動を続けていた。

すると今度は、

『支援活動は彼らの売名行為』という批判も出てきた。
『震災芸人』と言われ出した。

これに対し、サンドの二人は、
「言いたい奴には、言わせておけ」

そのうち、
『サンドウィッチマン』=『震災芸人』
と、呼ばれるようになった。

それでいいじゃん。
サンドを通して、募金やボランティアに行こうという気持ちを思い出してくれたら、それでいい。

14.被災地で思い知った『音楽の力』

サンドが被災地で思い知ったのは、意外にも、
『音楽の力』

歌が被災した人たちの心に届いていくのを何度も見た。
音楽を通して、被災地に一体感が生まれる。
お笑い芸人にはできないことだと思った。

その体験からサンドは、
『避難所の中で、お笑いライブはしないでおこう』
と、彼らはルールを決めた。

彼らが、被災地でちゃんとしたチャリティお笑いライブをやらせてもらえるようになったのは、
震災発生から1~2年後だった。

しかし、本人たちにそういう気持ちはなかったにせよ、
結果的には、サンドウィッチマンの支援活動は彼らの知名度をさらに底上げした。

15.『好きな芸人ランキング』1位

サンドは、ここしばらく『日経エンタテイメント』・『週刊文春』など、
『好きな芸人ランキング』トップ5の常連。
そして、
『嫌いな芸人ランキング』には一切入ったことがない。

2018年『日経エンターテイメント』芸人人気調査
『1番好きなお笑い芸人ランキング』1位
それまで14年連続一位だった『明石家さんま』を、2位に降した。

しかし彼らの好感度が高い最大の理由は、
二人のコンビ仲の良さ。

※ここからはQuoraでいただいた別の質問に、
やはり『サンドウィッチマン』のあるエピソードを例にして、解答を作成したものです。

16.質問『テレビで活躍している芸能人に一貫していることは何でしょうか?

この質問に対して、2022/05/31に作成・投稿した解答です。

質問ありがとうございます。

やはり『自分を応援してくれる人たち』に対して、
純粋な気持ちで、
『この人たちのために頑張ろう』と思える人。
ではないでしょうか?

下積みの長いお笑い芸人を、
その下積み時代から応援してくれていた人に感謝を忘れなかった話。

『お笑い不毛の地』と呼ばれる『宮城県仙台市』出身の、
2人組お笑い芸人『サンドウィッチマン』

『伊達みきお』(左)・『富澤たけし』(右)のコンビ

2人は仙台商業高等学校の同級生で、ラグビー部員として知り合う。

17.サンドウィッチマン結成前の『富澤たけし』

『富澤たけし』は20〜24歳くらいの頃、仙台市内の駐車場の警備員のアルバイトをしていた。(サンド結成前の1994~1998年頃)

その駐車場の2軒隣にあるラーメン店『麺や鳳園』
富澤がこの店に通い続けたのは、
アルバイト先の近くだったからだけではなかった。

『菅原文彰』氏=『麺や鳳園』店長・社長(当時)
菅原さんは、無名時代の『富澤岳史』の頃から、
『サンドウィッチマン』結成後もずっと応援してくれた。
サンドが仙台でお笑いライブをやれば、必ず劇場に花を送ってくれた。

菅原さんは、まだ無名の富澤をなぜか気に入っていて、
アルバイト先の駐車場まで『ラーメン』を配達。

しばらくしてからコーヒーを勝手に配達。
『缶コーヒーじゃ飽きるだろ?』と言って、
自分で淹れたコーヒーを配達していた。
それを口実に、富澤と話をしに行っていたらしい。
この時富澤は、普通の世間話をしていただけだったと言う。

17.『サンドウィッチマン』結成

その後、
1998年 富澤が長年口説き続けていた相方『伊達みきお』がお笑いコンビ結成に承諾し、
『サンドウィッチマン』(当時のコンビ名は『親不孝』)を結成。

2007年 サンド初の冠ラジオ『サンドウィッチマンのラジオやらせろ!(仮)』放送開始。

『麺や鳳園』店内でもこのラジオを流していた。
ある時ラーメンを食べていた客が、店内に流れるサンドのラジオを聴いて、

『俺、サンドウィッチマンって嫌いなんだよ』と言った。
菅原さんは、その客のテーブルへ行って、ラーメンの丼を取り下げ、

『金いらねえから帰れ!』

M-1優勝まで、このラジオがサンドにとっての唯一のレギュラー番組だった。

18.『M-1グランプリ2007優勝』

2007年12月23日 『M-1グランプリ2007』大会史上初の敗者復活枠からの優勝を成し遂げる。

菅原さんもテレビの前で、『M-1グランプリ』に出演するサンドを応援していた。

M-1グランプリ2007最終決戦ネタは、『ピザのデリバリー』

【公式】サンドウィッチマン コント【デリバリー(ピザ)】2007年

サンドが優勝した瞬間、
菅原さんも泣いて優勝を喜んだ。

M-1優勝の1ヶ月後、サンドは、仙台へ凱旋。
ラーメン店の菅原さんに優勝を報告した。

19.菅原文彰氏他界

その後菅原さんが危篤となった時、
サンドはすでに売れっ子芸人で大忙しだった。

菅原さんの息子で2代目店主『菅原敏彰』氏が富沢に電話を入れて、
父『菅原文彰』氏が危篤状態にあることを報告した。

富澤は菅原さんの病床へ駆けつけ、死に目を看取った。
相方の『伊達みきお』も、遅れて駆けつけた。

20.『M-1グランプリ2007』について

関西出身者が有利と言われている漫才の賞レースにおいて、
「お笑い不毛の地」とも言われる東北の出身者として初めて優勝を果たした。
サンドは敗者復活戦からの優勝。
敗者復活戦会場の大井競馬場から決勝戦会場である、
六本木のテレビ朝日本社へ移動。
そのまま、決勝1stラウンドでネタ『街頭アンケート』披露。
実力を見せつけた後、
会場に来ていた観覧席ゲスト『三倉茉奈・佳奈』や、
司会『今田耕司』を巻き込んでのアドリブトークまで、
全部面白い。


そして最終決戦、
決勝ネタ『ピザのデリバリー』で、見事優勝。

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