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主に作家『ハーパー・リー』について - 人前に出ないアメリカの作家(サリンジャー等)

「ハーパー・リーって誰だ?」と言う人のために。

僕の投稿を引用してくれた『あいぼり〜』さんの投稿を読んで、『アラバマ物語』の作者『ハーパー・リー』について書いてみようと思いました。

『アラバマ物語』ハーパー・リー

この一作で小説好きならだいたい知ってる、となるはず。

実際リーの書いた長編小説はこれと、あともう一冊しかありません。

『さあ、見張りを立てよ』ハーパー・リー

この小説はリーの死後に彼女の姉アンの許可を得て、出版されたもの。※この本に関してはのちに触れます。
内容としては『アラバマ物語』の続編です。

ハーパー・リーの評伝としては、この本がありますが、いわゆる自伝はありません。(今後発見される可能性も低いでしょう)

つまり正規には『一作を書いただけ』の作家です。

同じように『一作だけ』と言うと、

『風と共に去りぬ』マーガレット・ミッチェル

それともっと古い時代、しかもイギリスの作家。

『嵐が丘』エミリー・ブロンテ

が、います。(面白いことに3人とも女性)

ミッチェルは48歳で交通事故で、エミリーは30歳で結核でなくなるという短命だけど、ミッチェルは続編や2作目などを書く意思はなかったらしいし、エミリーは、『嵐が丘』出版時の評判は悪く、評価が高くなったのは死後の20世紀に入ってから。

リーは89歳まで生きたけど、その間続編どころか次回作を出版しなかった。

なぜなのか?は正直なところ本人にしかわからないのですが、その点を掘り下げるために簡単に彼女の生い立ちに触れてみます。

1926年 アラバマ州モンローヴィルで生まれる。

このアラバマでの幼馴染に作家『トルーマン・カポーティ』がいます。

映画化もされた『ティファニーで朝食を』の作者として知られる人物。

『アラバマ物語』の主人公(語り手)ジーン・ルイーズ・フィンチ(スカウト)のよく遊んだ隣の家の少年(夏になるとやってくる)ディル『カポーティ』がモデルになっています。

ハーパー・リーはアラバマ大学在学中にイギリスのオックスフォード大学に一年留学。

大学卒業後はニューヨークで航空会社に勤務。

しかし作家を目指して仕事を辞め、主に南部での生活を描いた短編をいくつか書き上げ、それら短編をもとにして『アラバマ物語』を完成。

1960年 34歳の時に『アラバマ物語』を出版。たちまちベストセラーに。
1961年 ピューリッツアー賞受賞。

To Kill A Mockingbird 1963 Trailer

映画『アラバマ物語』1963年公開 監督 ロバート・マリガン 出演 グレゴリー・ペック、メアリー・バダム

1963年 グレゴリー・ペック主演で映画化。

ところが、

『アラバマ物語』以後リーは、少数の短いエッセイを除き、作品を上梓しなかった。公の場にもほとんど姿を現さなかった。

新たな作品に取り組んでいるとの憶測が流れるくらいだった。

しかし1960年代中頃、リーは幼馴染の作家カポーティの小説『冷血』の取材に助手として同行。

『冷血』トルーマン・カポーティ

1959年に実際に発生した殺人事件を作者が徹底的に取材し、加害者を含む事件の関係者にインタビューする。
事件の発生から加害者逮捕、加害者の死刑執行に至る過程を再現した。
インタビューを行った作者本人は物語の中に一切登場しない。
カポーティ自身はこのような手法によって制作された本作をノンフィクション・ノベルと名づけた。
その後、ノンフィクション・ノベルの手法を使った作品が次々と他の作家によって発表された。
なお、カポーティは自分と同じように悲惨な境遇に育った加害者の一人に同情心を寄せ、「同じ家で生まれた。一方は裏口から、もう一方は表玄関から出た」という言葉を残している。

これが『ニューヨーカー』に連載されると、たちまちのうちに、従来のカポーティ作品を上回って、広汎な読者層を惹きつけることになった。

この『冷血』は映画化とテレビドラマ化と2度の映像化。カポーティにとっても代表作となった。

何よりも文学文芸において『ノンフィクション・ノベル』という新たなジャンルを切り開いた作品。

Capote(2005)Trailer.

映画『カポーティ』2005年公開 監督 ベネット・ミラー 出演 フィリップ・シーモア・ホフマン、キャサリン・キーナー

カポーティが代表作『冷血』を取材し書き上げるまでを中心に描いた伝記映画。

この映画で取材助手のハーパー・リーはキャサリン・キーナーが演じる。

カポーティに関しては長くなってしまうので、別に記事を書こうと思います。

ただハーパー・リーは、『冷血』が出版された時、あれだけ協力したのに、カポーティから感謝の言葉がひと言もないのに愕然としたという。

またこの映画内では『アラバマ物語』が映画化された描写もあります。

カポーティはこの作品以降長編小説を書けなくなってしまったが、リーは一作も書いていない。

ハーパー・リーはアラバマ州モンローヴィルに住みこの町の名士であるが、あまり他人と付き合いがない生活をしている。

米国では2015年7月14日に発売。

『アラバマ物語』の続編に当たる『さあ、見張りを立てよ』は1960年代を背景としてアラバマ物語以前に書かれており、アラバマ物語のベースとなっていることが明らかになっている。

ではこの『さあ、見張りを立てよ』はどんな内容なのか?

『アラバマ物語』の20年後、26歳になったジーン・ルイーズ・フィンチ(スカウト)。
大人になってニューヨークで暮らし自立していたジーン・ルイーズは26歳でアラバマに帰省。ところが、
崇拝する父のアティカスが白人至上主義団体「Citizens' Councils(白人市民会議)」の会議に出席していることを知って衝撃を受け、衝突するという物語。

『アラバマ物語』はアメリカの大部分の学校が課題図書にしているモダンクラシック。
1950年代後半から1960年代全般に渡る「米国公民権運動」の高まりの中で、最もよく読まれた本の中の一冊。
しかし、人種差別用語が出てくることから米国の国立教育機関で禁止となっていることも多く、未だに論争を招く作品である。
映画『アラバマ物語』で主役を演じたグレゴリー・ペックとともに、アメリカの良心とも呼ばれる『アティカス・フィンチ』の人気の高さは、アメリカのヒーロー1位に選ばれるほど。

こういう背景を知ると、『さあ、見張りを立てよ』が否定される理由もわかると思います。

『アラバマ物語』のファン=多くのアメリカ市民ががっかりしたということ。

ハーパー・リーは『さあ、見張りを立てよ』を出版すればこういう反応になることがわかっていたからこそ、出版しなかったというのは単なる僕の想像です。

待望された続編ではあったが、ニューヨーク・タイムズのミチコ・カクタニは、
「前作を読んだ読者にとっては不穏な経験だろう」と書評で語っており、アラバマ物語とはコントラストがつく作品になっている。

1984年 カポーティが亡くなり葬儀に出席するまで、リーとカポーティは没交渉だった。

2007年11月5日

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81歳のリーはその文化的貢献に対してジョージ・W・ブッシュ大統領から大統領自由勲章を授与され、ホワイトハウスでの式典に姿を見せた。※おそらく唯一と言っていい、『アラバマ物語』上梓後に公の場に現れた事例。

2016年2月19日死去。89歳没。

アティカス・フィンチの姿はアメリカの良心の体現であると同時に、アメリカ的な白人の家父長的な価値観が濃厚な作品(特に映画は)になっているともいえる。

ジーン・ルイーズは成長し、独り立ちして、ニューヨークに住み、"南部に比べれば"人種差別的な価値観の薄い北部の価値観を吸収する。

しかしその間、父親のアティカスはずっと人種差別主義の濃厚な南部に住んでいた。

『さあ、見張りを立てよ』の中で、ジーンとアティカスが激しく口論するが、弁護士と弁護士の娘、どちらも弁が立ち、どちらの主張にも一理ある。

主張、思想の是非はさておいて、要するにジーンが父親を乗り越えていく物語。

このような割り切った見方ができるのも、僕が日本人だから。
つまり、アメリカは学校の教科書に採用されるほど、身近に『アラバマ物語』があり、幼少時から古典として親しんできたアメリカ人がこの『さあ、見張りを立てよ』でのアティカスの変化を簡単に許容できないのもわかる。

『アラバマ物語』の原題"To Kill a Mockingbird"=「マネシツグミを殺すこと」

『マネシツグミ』=『モノマネドリ』

モーディおばさん「青カケスは殺してもいいけど、マネシツグミは殺してはいけないよ、彼らは私達を歌で楽しませる以外何もしないのだから」

若いハーパー・リーが作家を目指して短編をいくつか書いていた頃からの編集者『テレサ・フォン・ホホフ』の提案で、それらの短編をまとめ『アラバマ物語』は書かれた。
『さあ、見張りを立てよ』の原稿をもとに、主人公ジーン・ルイーズ(スカウト)の少女時代を描き、スカウトの父親アティカスの人物像にも改変が加えられ、『アラバマ物語』は完成した。
どこまでか、どの割合かはわからないが、『アラバマ物語』への手直し作業にはリーと編集者ホホフとのディスカッションがあった。
これがほぼホホフのアドバイス、アイデアの反映で『アラバマ物語』が完成された、という見方が批判側の意見の主流です。
つまりハーパー・リーの文筆家としての才能、実績まで否定しようというものだけど、『アラバマ物語』を書いたのはあくまでハーパー・リー自身だと僕は思いたい。
そう考えるとその後の隠遁生活にも説明がつくが、上の2007年の大統領自由勲章受賞での笑顔はみられないと思う。

 ハーパー・リーと同様人前に出ない作家について。

上にあげた『トルーマン・カポーティ』については、リーとは対照的に、作家としての出発時点(19歳でデビュー)から、早くも華やかな交友関係ができあがっていました。
作家、芸術家のほか、上流階級、国際社会の著名人と幅広い交友があり、その活発な社会生活によって何度となくメディアの注目を浴びました。
作家としては珍しくゴシップ欄の常連になるなど、公私の両面で話題を振りまいた人でした。

『J・D・サリンジャー』

『ライ麦畑でつかまえて』J.D.サリンジャー(野崎孝訳)

この本に関しては翻訳がいくつか出ています。村上春樹のファンは、

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』J.D.サリンジャー(村上春樹訳)

2003年出版の村上春樹訳のこちらがいいかもしれません。

この『ライ麦畑でつかまえて』一作が超有名な作家ですが、この作品上梓前の短編が映画化され、サリンジャーはこの映画を見て激怒し、それ以来自分の作品の映画化を許可することはなかった。

1950年『ライ麦畑でつかまえて』出版

2007年までに全世界で6000万部以上の売り上げを記録。現在でも毎年約50万部が売れているとされる。

しかしこの成功によって、ニューヨークで静かな生活を送ることは次第に難しくなっていった。結果、ニューハンプシャー州のコネチカット川のほとりにあるコーニッシュの土地を購入、原始的な生活を送る。

そこで地元の高校生達と親しくなり、交流を深めることになる。しかし、その関係も長くは続かず、親しくしていた女子高生の1人が、学生新聞の記事として書くことを条件に受けたインタビューの内容を、スクープとして地元の新聞にリークしてしまった。このことに激怒し、高校生達とも縁を切り、社会から孤立した生活を送るようになった。

しかしハーパー・リーと違って生涯1作品のみというわけではなく、寡作ではあるが発表、出版を続ける。

『ナイン・ストーリーズ』J.D.サリンジャー

この作品から登場する『グラース一家』の物語、またはその一家の人物が絡んだ物語を描き続ける『グラースサーガ』(グラース一家シリーズ)はサリンジャーのライフワークでもあった。

1965年

『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16,1924』J.D.サリンジャー

この短編集に収められた『ハプワース16,1924年』を最後に作品の発表をやめてしまう。事実上の引退。

晩年のサリンジャーは人前に出ることもなく、2メートルの塀で囲まれた屋敷の中で生活をしていた。
一方で、住んでいた町では「ジェリー」と呼ばれて親しまれ、子供たちとも話をし、毎週土曜に教会の夕食会に参加するなど、地域に溶け込んで暮らしていたという。住民の間では彼の私生活を口外しないことが暗黙の了解だった。

2010年1月27日、ニューハンプシャー州コーニッシュにある自宅にて老衰のため死去。

サリンジャーについても、いずれ記事を書いてみたいと思っています。

Rebel in the Rye. Trailer(2017)

映画『ライ麦畑の反逆児/ひとりぼっちのサリンジャー』2017年公開 
監督 ダニー・ストロング 出演 ニコラス・ホルト、ゾーイ・ドゥイッチ

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『ヘンリー・デイヴィッド・ソロー』

『ウォールデン 森の生活』H.D.ソロー

小説家ではなく思想家、哲学者。この人を取り上げるのはかなり飛躍してるとは思うのですが、
『ウォールデン/森の生活』を読んでみると、ソローは文明社会、資本主義経済への反抗というよりも、『人間嫌い』だとわかります。

1846年 奴隷制度とメキシコ戦争に反対する意図で州税を収めなかったため牢屋にぶち込まれ、叔母が代わりに人頭税を払い1日で釈放。

その後マサチューセッツ州ウォールデン池の湖畔で丸太小屋の家を建て、自給自足生活を2年2ヶ月送る。

その時につけていた記録をまとめたものを、1854年『ウォールデン 森の生活』として出版。

ただし自給自足のサバイバルというよりも、割と人里に近い森の中での一人暮らし。隠遁生活的な暮らしぶりです。

「人は一週間に一日働けば生きていけます」と言った具合に、シンプルに賢く生きようという提案。
「生きることは苦行ではなく、遊びなのだ」
「菜園の野菜のように君の貧困をたがやせ、衣服でも友人でも新しいものを手に入れようとあせるな。古いものに向かえ、それに戻れ。事物は変わらない。変わるのはわれわれだ」

最近静かなブームらしく、上のような『森の生活』に挿絵をつけた読みやすい本が出版されています。

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