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『人間不平等起源論』を読む(3)

 前回まで、2回にわたって、ルソーの『人間不平等起源論』を読み解いていきましたが、今回は第三号です。

『人間不平等起源論』を読む(1)

『人間不平等起源論』を読む(2)

まずは、いつも通り、前回の確認から。


前回までのおさらい

 人間には、「自己保存」と「憐れみ」の感情が存在します。また、この二つの原理は、理性に先立ちます。その限りで、自然状態において人間の間に不平等は存在しません。やがて、私有の観念が人々のあいだに行き渡ると、「自尊心」が芽生え、自然状態にあった二つの原理は均衡を崩し、人間の間に不平等が引き起こされるのでした。

 さて、今回は、以上を踏まえて、ルソーの『人間不平等起源論』をみていくことにします。


ルソーの動物論

 しかし、その前にひとつだけ、脱線させてください。

じっさい、私が同胞にいかなる害も加えてならないのであれば、それは同胞が理性を持った存在であるというよりも、感情を持った存在であると思われるからで、この性質は獣にも人間にも共通なものであり、少なくとも前者に対して、後者によって無益に虐待されてはならないという権利を与えているに違いないのである。〔注1〕

これは、憐れみの感情に関する記述のあとに、ルソーが続けて書いていることなのですが、本論とは少し内容がズレる(というか、政治思想とも、音楽とも、言語論とも、教育とも、関係が薄い)ので、解説書なんかでは、完全スルーの箇所です。しかし、ここで面白いのは、ルソーが現代の動物愛護の考えにきわめて近いことを言っている、という点です。

 もちろん、誰だって「動物をいじめてはいけない」ことくらい分かっていますよね。しかし、ルソーはその理由までしっかり説明しているのです。この「理由までしっかり説明する」ということが大切だと思うのです。しかも、「人間にも共通」という言い方で、「権利」という言葉も用いて、語っています。皆さんは、先ほども言った通り、「動物をいじめてはいけない」ことくらい分かっているはずです。しかし、「なんでだめなの?別にいいじゃん」という人がいたとき、どのように「いじめてはいけない理由」を説明しますか?

 いじめといえば、この例に限らず、皆さんは、学校現場でいじめ問題が取り沙汰されていることをご存じかと思います。問題が発覚し、報道されるたびに、「いじめられる方にも原因がある」というような誤った論調が一部から出てきますよね。私は、こうした人々に反して、「いかなる理由があってもいじめる人が絶対的に悪い」と思うのですが、その理由が、まさにここでルソーが動物について述べているように、いじめられている人は「感情を持った存在であると思われるから」なのです。

 その「理由」の部分をないがしろにして、とにかく「ダメなものはダメだ」と言い張っていてはいけません。ダメだ、と正義を語るように見えて、じつはむしろ危険すらあるということに、私たちは気づかなければならないと思います。動物にせよ、いじめられっ子にせよ、「感情を持った存在であると思われる」以上、彼らが悲しむことはあってはならないはずなのです。でも、何も考えずに、「いじめはダメ」というレベルで思考を満足させている人は、いじめはダメと知りつつ、「いじめられる方も悪い」と言ったり、「夜中に鳴いてうるさいから・・・」と言ったりすることができてしまうのです。この発言で自分がいじめに加担しているとも気づかずに。二重に彼らを苦しめているということに気づかずに・・・。

 つまり、いま引用であげた文章から私は、「理由」を考えずにある主張を声高に主張する者は、その正反対の意見や行動に、一挙に反転してゆき、しかもそのことに気づくことなく、知らぬ間に悪に加担することになってしまうかもしれない、ということに気づかせてくれるような気がするのです。この文章から、生きとし生けるすべての者に対する、ルソーの優しいまなざしを、私は感じ取るのです。だからこそ、不寛容なこの社会で、ささやかながら、この言葉をこうしてnoteで伝えることにも、一定の意味があるように思えるのです。


 ・・・・・・。さて、ずいぶん脱線が長くなりました。これ以上脱線すると、もう二度と本線に戻らない気がしましたので、この辺で、読解に戻ります。


社会と法律の誕生

 私有財産の確立以降に、どのように事態は展開していくのでしょうか。

いまやわれわれのあらゆる能力は発達し、記憶力と想像力は働き、自尊心には利害がからみ、理性は能動的になり、精神は可能なかぎりの完成の域にまでほとんど達している。いまやあらゆる自然の性質は活動し、各人の地位や運命は、たんに財産の量や役に立ったり害になったりする能力にもとづくのみならず、精神、美、力、器用さにもとづいて、長所、才能にもとづいて確立され、こうした性質は、尊敬を得られる唯一のものであるから、やがてそれを持っているかあるいは持っているふりをしなければならなかったし、自分の利益のためには、じっさいにあるがままの姿とは違った自分を示さなければならなかった。(p.243)

他人との比較を経て、その比較において自分が優位に立たなければ、不平等な社会のなかでは生きていけません。

それゆえ、人間は、たえず同胞たちから自分の運命に関心を持ってもらえるように、現実であれ見せかけであれ、その人の利益のために働くことに自分たちの利益が見出してもらえるように努めなければならず、そのために、ある人々に対してはずる賢くなり、ほかの人々に対しては横柄で冷酷になり、自分が必要とするすべての人々から恐れられなかったり、その人々に役に立つように奉仕しても自分の利益にならないときには、どうしても欺かざるをえなくなるのである。(p.243)

ここでは、素の自分を見せることは、明らかな不利となります。だから、自分自身の「本当の姿」とは違う「仮面」を被って、演技しながら社会を渡っていかなければならない。これが、不平等が発生してから訪れる社会のありさまなのです。

要するに、一方では競争と対抗心、他方では利害の対立、そしてつねに他人を犠牲にして自分の利益を得ようという欲望、これらすべての悪は私有の最初の結果であり、生まれたばかりの不平等から切り離すことのできない付随物であった。(p.243-244)

 ここで、「ルソーの言ってることは分かったけど、要するに勝てばいいんでしょ」、負けたらたしかにつらいかもしれないけれど、勝てば官軍、むしろみんなにチャンスがあってよいではないか、と思う人もいるかもしれません。

 しかし、勝った「富める者」も、決して安住できるわけではない、とルソーは続けます。

自分を正当化するための正当な理由もなく、自分の身を守るための十分な力もなく、一個の人間を容易に踏みつぶすけれども、自分自身も盗賊の群れによって踏みつぶされ、万人に対してただ一人で、おたがいのあいだの嫉妬心のために、略奪という共通の希望によって団結した敵に対抗して仲間と結びつくこともできず、・・・(p.245)

こうして、富める者はある提案をすることになります。

弱い者たちを抑圧から守り、野心家を抑え、各人に属する所有物を各人に保証するために、団結しよう。すべての人が従わなければならず、だれも例外とはならず、強力な人も弱い人もおたがいの義務に従わせることによって、とにかく運命の気まぐれを償う、正義と平和の規則を定めよう。要するに、われわれの力を、われわれ自身に向けないで、賢明な法によってわれわれを支配し、協同体すべての成員を保護し、守り、共通の敵をはねのけ、永久の和合のなかにわれわれを維持するような一つの最高の権力に集中しよう(p.246)

これが、ルソーに言わせれば、社会と法律の起源なのです。では、その社会と法律を、ルソーはどのように定義しているでしょうか。

弱い者には新たな拘束を、富める者には新たな力を与え、自然の自由を取り返しのつかないまでに破壊し、私有と不平等の法律を永久に固定し、巧妙な横領を取り消すことのできない一つの権利として、若干の野心家の利益のために、以後全人類を労働と隷属と悲惨とに屈従させたのであった。(p.246-247)


次回予告

 これ以降は、社会の制度の議論になります。本当ならば、今回の記事で『人間不平等起源論』を読み終わる予定でしたが、脱線が多すぎたので、次回に繰り越すことにします。お楽しみに。

続きはこちらから


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本文中に〔  〕で示した脚注を、以下に列挙します。

〔注1〕『ルソー全集 第四巻』原好男訳、白水社、1978年、194頁。以下、本記事において、特に断りなく頁数だけが示されている場合は、ここにあげた白水社版『ルソー全集 第四巻』の頁数を示しているものとします。

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