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『人間不平等起源論』を読む(1)

 前回までのnoteでは、『学問芸術論』を読んできました。この『学問芸術論』は、別名「第一論文」とも言われています。学問や芸術が人間をいかに堕落させたか、ということが書かれており、この挑戦的な内容の論文がきっかけで、ルソーは華々しく文壇デビューを果たしたのでしたよね。

 そこで、今回は「第一論文」に続き「第二論文」とも呼ばれる『人間不平等起源論』を読んでいきたいと思います。

『学問芸術論』についての記事はコチラから
(まだ読んでいない人は必読です!)

序文・第一部 → https://note.com/j_j_r/n/n86f1b528dda7
第二部 → https://note.com/j_j_r/n/nbdba4a129c24


はじめに

 『人間不平等起源論』の読解を始めるまえに、とある案内人の手を借りて、『学問芸術論』と『人間不平等起源論』の橋渡しをしておくことにします。

 その案内人とは、今野一雄さん。今野さんは、岩波文庫版の『エミール』の翻訳に携わった方で、『ルソーとの散歩』(白水社、1980年刊)という本も書いておられます。ここでは、その『ルソーとの散歩』のなかにある文章を、少し長めですが、引用することにします。

 ところで、文化人の多くは、『学問芸術論』を読んで、反省させられたとしても、学問や芸術は無用だ、といったような議論には賛成することができなかったので、ルソーに反対する論文が次々に発表されることになり、ルソーは、そういう反対論にたいして回答を書いているうちに、だんだん、攻撃の対象を、学問や芸術から社会へと変えていきました。要するに、学問や芸術そのものが悪いのではない、特権階級や金持ちに奉仕している学問や芸術が悪いので、けっきょくは、人々の間にははなはだしい不平等がある現在のような社会が悪いのだ、という考えを明らかにし、やがて、第二の論文、『人間不平等起源論』(一七五五年出版)で、社会的不平等がどのようにして生じたかを論じました。〔注1〕

 こうして、社会的不平等こそ諸悪の根源である、と主張する『人間不平等起源論』は書かれたのです。


二種類の不平等

 『人間不平等起源論』では、そのタイトルが示す通り、人間の不平等について論じられています。「不平等」と聞くと、私たちは色々なものを思い浮かべるはずです。「ある人と私を比べると、給料がずいぶん違うらしい」とか、「あの人はモテるのに、それに比べて私は・・・」とか、内容や程度に違いはあれど、この社会で私たちはさまざまな不平等に囲まれながら生きていることを、瞬時に思い起こすことができるでしょう(もっとも、不平等と言われると私たちはつい「経済的不平等」のことばかりイメージしてしまいがちですが、先に示したような対人関係の場における「不公平感」なども、広義にはある種の不平等と言っても良いでしょう)。

 しかし、ルソーは、質的に不平等を区別して考えることからこの『人間不平等起源論』を始めます。すなわち、不平等には、「自然的不平等」と「倫理的・政治的不平等」がある、というのです。

 自然的不平等とは、年齢や体力、健康状態など、自然によって確立されているような不平等です。この自然的不平等の根源を「何であるか?」と問うことは、その不平等が自然的なものであるがゆえにできません。他方で、他人よりも金持ちであること、他人よりも尊敬を受けていること、などを倫理的・政治的不平等と言います。ルソーが問題視するのはこちら側で、ルソーによれば、この「倫理的・政治的不平等」は、自然状態の人間においては決して存在しませんでした。

 では、元来存在しなかった倫理的・政治的不平等がなぜ存在するようになったのでしょうか。〔注2〕


自己を完成する能力

 人間の社会にはびこる、人間特有の不平等。そのような不平等が起こった原因は、当然のことながら人間に特有の「何か」にあるはずです。その「何か」とは、自己を完成する能力だ、とルソーは言います。

この特有の、ほとんど無制限の能力が、人間のあらゆる不幸の源であり、静かで無邪気な日々が流れていたであろうあの最初の状態から、時の力によって、人間をひきだすのもこの能力であり、人間の知識の光と誤謬、悪徳と美徳を幾世紀の時の流れとともに花咲かせ、ついには人間を自分自身と自然の圧制者にするのもこの能力であるということを認めざるをえないのは、われわれにとって悲しいことであろう。〔注3〕

 この能力が人間特有のものである証拠として、ルソーは、人間は言語を使用し、動物は使用しない、ということを挙げます。もちろん、動物のなかにも言語(に近いもの)を使用する動物は存在するということが、近年の研究から分かってきています。たとえ人間のように声を発することはなくても、その動物同士で伝達可能な音波を用いて、ある種のコミュニケーションをする動物も、確認されています。ルソーが生きていた時代においては、そのような事実は知られていなかったでしょう。しかし、言語を使用し、コミュニケーションをとる動物が存在することは、ルソーの説が誤りであることを示しません。

 ここでルソーが言いたいことは、「社会性」の有無の問題です。「言語の制定にとってすでに結合した社会が必要なのか、それとも社会の成立にとってすでに発明された言語が必要なのか」(p.219)はわからないですが、いずれにせよ、言語の成立には社会性が必要であることに変わりはありません。


言語の誕生

 言語に関するルソーの考察は、コンディヤックという哲学者の議論を踏まえて進められていきます。ここではその議論の詳細を追うことはしません〔注4〕が、ルソーが結論したことは、「自然が人間の社会性を準備することが少なかった」(p.219)ということでした。

 さて、ここで、先程の不平等の二つの区別に立ち返ってみましょう。いま問題とされているのは、「倫理的・政治的不平等」でしたね。この不平等は、「他人と比べて」、自分が「他人よりも」何らかの点で優れていると思う、という種類のものでした。この倫理的・政治的不平等を測る尺度として、「他人」が導入されていることにお気づきでしょうか。つまり、倫理的・政治的不平等は他人という社会性を介して初めて誕生するものなのです。

 さて、ここまでの議論を踏まえてようやく、社会性が存在しない自然状態においては、倫理的・政治的不平等は存在しない、というルソーの主張が理解できるようになるのです。そしてルソーは、自然状態を以下のようにまとめます。

器用でもなく、言葉もなく、住居もなく、戦争もなく、関係も結ばず、同胞に危害を加えることを少しも望まないのと同じように、同胞を少しも必要とせず、おそらく同胞のだれかを個人的に覚えていることさえなく、森のなかをさまよい歩き、野性の人はわずかの情念に従うだけで、自分だけで充足しており、その状態に固有の感情と知識の光しか持っておらず、自分の真の欲求だけを感じ、見て利益があると思うものしか眺めず、その知性は虚栄心よりも進歩はしなかったということになる。偶然にもなにかの発見をしても、自分の子供さえ覚えていなかったのであるから、それを伝えることはなおさらできなかった。技術は発明者とともに滅び、教育も進歩もなく、世代はむなしく重なっていき、その各世代は同じ点からいつも出発し、幾世紀もが初期のまったく粗野な状態のうちに過ぎ去っていき、種はすでに老いているのに、人間は依然として子供のままであった。(p.228)


次回予告

 『人間不平等起源論』の第二部では、いよいよ自然状態から社会状態へと考察の対象を移して、人間の不平等の起源に迫っていきます。

続きはこちらから


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本文中に〔  〕で示した脚注を、以下に列挙します。

〔注1〕今野一雄『ルソーとの散歩』白水社、1980年、23~24頁。

〔注2〕『人間不平等起源論』の第一部では、はじめに人間の肉体的な面(自然的不平等)について述べられていきます。ただ、この記事では、ルソーの主張の概要を、できるだけ原典に触れながら、しかも分かりやすく解説する、ということが目的なので、割愛しました。とはいえ、今回の記事で割愛した部分にも、すごく面白く、示唆に富む内容が含まれているので、ぜひこの記事をきっかけに、『人間不平等起源論』を手に取ってみてくださいね。

〔注3〕『ルソー全集 第四巻』原好男訳、白水社、1978年、210頁。以下、本記事において、特に断りなく頁数だけが示されている場合は、ここにあげた白水社版『ルソー全集 第四巻』の頁数を示しているものとします。

〔注4〕ルソーの言語に関する考察は、記事を改めて、詳しく取り上げたいと思います。

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