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フリオ・コルタサル【南米の大喜利名人】

ご存じラテンアメリカ短編小説の名手、フリオ・コルタサルの作品を読むとき、「これは大喜利だな」と感じる。「もし〇〇が××だったら…」と突飛なお題がポンと出て、それをいかに上手く料理して、お客さんを喜ばせるか、というメソッドが同じなのだ。

コルタサルの作品の、例えば『占拠された屋敷』は、「もし、自分の家をワケの分からない何者かに占拠されたら…」というお題に対するアンサーであるし、『南部高速道路』は「もし、高速道路で半年間つづく超絶的な渋滞に巻き込まれたら…」というお題についてのアンサーである。

それにしてもコルタサルはお題のチョイスが抜群にいい。「ありえないけど、そういうことあったらどうしよう」という気持ちにさせる。料理の手並みもあざやかだ。はじめはありえない設定だと思えたものが、その筆致によって、じわじわとリアリティを身につけてゆく。いつの間にか、非日常が日常感を帯びてくる。『南部高速道路』では、渋滞で車が遅々として進まなくなってから、隣の車同士で食料や水の交換がおこなわれ、コミュニティが結成され、やがて恋愛がはじまり、不良青年は更生し、季節が移ろい、老人は死んでゆく。高速道路で何日、何か月も生活しなければならないという非日常が、やがて日常に変質してゆく。

しかし、読者を自分の作りあげた日常へと巧妙にいざなっておきながら、物語の結末にいたって、コルタサルは突然カードをひっくり返す。冬を越して寒さが弛んできた時分、唐突に渋滞が解消される。

「その時、鈍い地鳴りのような音が聞こえてきた。とてつもなく重い移住性の動物の大群が長い眠りから覚め、抑えようのない力で移動しはじめたような感じだった。」(『南部高速道路』)

あわてて自分たちの車に戻り、アクセルを踏む。高速道路上で知り合い、愛を誓った恋人、食料を分かち合い、ともに冬の寒さに耐えた若者たちや老人など、半年も共同生活を送っていた人々の車が離れてゆき、しまいには散り散りになってしまう。隣を走っているのはもう、どこの誰かもわからない。だが車は止まらない。スピードはどんどんあがってゆく。

「なぜこんなに飛ばさなければならないのか、なぜこんな夜ふけに他人のことにまったく無関心な、見知らぬ車に囲まれて走らなければならないのか。」(『南部高速道路』)

この半年のうちに構築した絆を失った主人公は、喪失感をかかえつつ、そのように問う。コルタサルが創造した高速道路上の日常が霧散し、道路の外の日常が、それまでの不在を取り戻すようにかけ足で戻ってきたのだ。渋滞に費やした半年間を、夢オチにしないところが非凡だ。それはほんとうにあったこと。しかし失われる運命にあった日常である。疾走する車の描写はダブルミーニングになっている。渋滞が解消されたことだけでなく、異なる日常への急速な転換がなされたことを読者に体感させるテクニックだ。

非日常が日常へと巧妙に作り変えられたのち、突如として内破する。そのなかで得たものは失われ、人々は高速道路の外にあった別の日常へと無造作に投げ出される。コルタサルが読者を幻惑する手腕は見事、のひとことに尽きる。それは熟練のマジシャンの技を思い起こさせる。

write by 鰯崎 友

『悪魔の涎・追い求める男 他八篇』著:フリオ・コルタサル 訳:木村榮一 岩波書店 1992)

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