ittokutomano

苫野一徳(哲学者・教育学者)。熊本大学准教授。『NHK100分de名著 社会契約論』『…

ittokutomano

苫野一徳(哲学者・教育学者)。熊本大学准教授。『NHK100分de名著 社会契約論』『愛』『「学校」をつくり直す』『はじめての哲学的思考』『「自由」はいかに可能か』『子どもの頃から哲学者』『教育の力』『勉強するのは何のため?』『ほんとうの道徳』『どのような教育が「よい」教育か』等

マガジン

  • 【解説】竹田青嗣『欲望論』

    現在、英訳プロジェクトが進行中の本書。 世界で読まれるようになれば、おそらく哲学史における「事件」と言われることになるかと思います。 でも、天才は理解されるまでに時間がかかる。 あと20年は、理解されないままかもしれない。 でもそれは、世界の哲学・学問界の大損失だと思います。 そこで弟子としては、ぜひ多くの方に本書を吟味検証していただきたく、解説をアップすることにしました。 全19回、新書1冊分くらいの分量になりますが、ぜひ多くの方にお読みいただけると嬉しいです。

  • ルソー『エミール』解説

    『NHK100分de名著 苫野一徳特別授業 ルソー「社会契約論」』の出版を記念して、『社会契約論』と同年の1762年に発表された『エミール』全巻の解説をアップしました。

  • ルソー『言語起源論』解説

  • ルソー『孤独な散歩者の夢想』解説

  • ルソー『告白』解説

最近の記事

【解説】竹田青嗣『欲望論』(19)〜芸術とは何か?

1.芸術の現象学 独断論にも相対主義にも陥らず、私たちは芸術の本質をどう洞察することができるだろうか?  竹田はまず次のように言う。  多くの若者は、ある時期にさしかかって特定の音楽家、歌手、作家、詩人、画家などになぜか強く引かれ、その作品のみならず、その芸術家、アーティストに強く憧れるという体験をもつ。この独自の表現的結晶作用の体験は、美的体験と同じくその由来を誰も現前意識の直接性としてたどることができず、まさしくその理由で未知性、稀少性、不思議さと背後世界性を直観させ

    • 【解説】竹田青嗣『欲望論』(18)〜芸術の本体論 VS 相対主義的芸術論

      1.芸術の「本体」論 続いて、竹田は「芸術」の本質へと筆を進める。  従来、哲学的芸術論には何かしらの「本体論」がつきものだった。  たとえばカントは次のように考えた。  芸術の与える感銘の本質は、神のみが造り出しうる自然の形象の驚くべき美(合目的性)を、特別の才に恵まれることで人間も創出しうることへの驚きであり、それゆえ天才のみが芸術の担い手である——。カントのこの見解は、芸術とは神の業の人間的模倣であり、それ自体が一つの賜物であるという観念に支えられている。  カ

      • 【解説】竹田青嗣『欲望論』(17)〜美とは何か?

        1.美をめぐる4つの問い 前回、私たちは、「善ー悪」という分節の源泉が「母ー子」の言語ゲームにあることを見た。  続いて竹田は、「美ー醜」の分節の源泉もまた、基本的には「母ー子」の言語ゲームにあることを述べる。(ここで「母」と呼ばれるのは、養育者を象徴的に名づけたものであって、当然、父であっても、祖父母であっても、血縁関係にない養育者であっても構わない。)  しかしこのこともまた、哲学史において十分洞察されてきたこととは言えないと竹田は言う。  そこで竹田は、本書で、カ

        • 【解説】竹田青嗣『欲望論』(16)〜善悪の起源

          1.発生的本質観取 前回は、「母」(養育者の総称)と「子」における「言語ゲーム」について見てきたが、竹田によれば、これは人間的価値審級の源泉と言うべきものでもある。  われわれの仮説は、言語ゲームという成育の環境を欠くなら、「子」は定常的な「関係的身体性」の形成を損なうだけでなく、そのことによって人間的価値審級「よい–わるい」「きれい–きたない」の形成を欠くということ、すなわち、「母–子」の言語ゲームは人間的価値審級の源泉にほかならない、という仮説である。  人間は、この

        【解説】竹田青嗣『欲望論』(19)〜芸術とは何か?

        マガジン

        • 【解説】竹田青嗣『欲望論』
          19本
        • ルソー『エミール』解説
          5本
        • ルソー『言語起源論』解説
          1本
        • ルソー『孤独な散歩者の夢想』解説
          2本
        • ルソー『告白』解説
          2本
        • ルソー『人間不平等起源論』解説
          2本

        記事

          【解説】竹田青嗣『欲望論』(15)〜「身体」の本質観取②

          1.「存在可能」と「能う」 続いて、身体の本質の第2契機である「存在可能」と、第3契機である「能う」について。  「存在可能」とは、私たちは自らのさまざまな可能性を、「身体」を通して開いていくことができるということだ。  そして「能う」とは、このさまざまな可能性を、私たちは「身体」を通して「能う」(できた)と感じることができるということだ。  たとえば、お腹が空く。そこで身体は、「食べる」ことによって、「空腹を満たす」という新たな可能性を開くことができる。その結果、私は

          【解説】竹田青嗣『欲望論』(15)〜「身体」の本質観取②

          【解説】竹田青嗣『欲望論』(14)〜「身体」の本質観取①

          1.「快−不快」「エロス的予期−不安」 ここからは、『欲望論』第2巻の内容を紹介・解説していこう。  第1巻では、意味や価値の本質を解明するための現象学ー欲望論的方法が明らかにされたが、第2巻では、それを実際に展開し、「身体」「善悪」「美」「芸術」などの本質観取が行われる。  今回は、まず「身体」について。  これは、第1巻の最後(前回)ですでに取り組まれていたテーマである。竹田が取り出した「身体」の3つの本質契機を、改めて確認しておこう。 (1)私にとって、身体は「

          【解説】竹田青嗣『欲望論』(14)〜「身体」の本質観取①

          【解説】竹田青嗣『欲望論』(13)〜「他我」および「身体」の本質

          1.他我の本質 次に竹田は他我の本質観取へと進む。  時間と同様、これについてもフッサールの本質洞察がある。  しかしここでもまた、フッサールに欲望論の構えがなかったために、その分析は十分核心にまで迫っていない。  フッサールによれば、私たちは他者が自分と同型の身体を持った存在であることから、他者へと感情移入し、他者もまた自分と同じように世界を確信している存在であることを確信する。  しかし竹田は言う。  他我への「自己投入」による他我存在の確信が生じ、そこから他我

          【解説】竹田青嗣『欲望論』(13)〜「他我」および「身体」の本質

          【解説】竹田青嗣『欲望論』(12)〜時間とは何か?

          1.本質観取 これまで私たちは、意味や価値の本質、すなわち、「〜とは何か」という問いに対する答えの出し方を明らかにしてきた。  それは、「これこそが真理である」とする形而上学的独断論によってはむろん解明することのできないものである。  かと言って、「本質などどこにもない」などと、相対化し続ける必要もない。  なぜなら私たちは、自らの「現前意識」(その最も源泉となるものは、前回見た、個的直観・本質直観・情動所与である)において、さまざまな「確信」を成立させているからだ。

          【解説】竹田青嗣『欲望論』(12)〜時間とは何か?

          【解説】竹田青嗣『欲望論』(11)〜欲望論の哲学とは何か?

          1.現前意識 ここでようやく、フッサール現象学をさらに深化した、竹田青嗣の欲望論哲学の原理について論じていくことにしよう。  前にも述べたように、現象学は、決して疑い得ない思考の始発点を「超越論的主観性」として定めた。  それはつまり、たとえばリンゴが「見えてしまっている」といった「現前意識」を根拠とする意識作用のことである。  私たちは、このリンゴが絶対確実に存在しているのかどうか、疑うことができる(夢かもしれないし、幻影かもしれない)。  しかし、いま私にこれが「

          【解説】竹田青嗣『欲望論』(11)〜欲望論の哲学とは何か?

          【解説】竹田青嗣『欲望論』(10)〜言語ゲームと現象学

          1.言語哲学の問題 前々回は、竹田による現代言語哲学批判を見た。  少しだけおさらいしておこう。  現代の言語哲学は、一方で、言語を厳密に規定することで客観性に到達しようと試みる(ラッセルなど)。  論理学は、概念と記述の一義的な規定可能性を探究することによって、言語の万人にとっての論理操作の同一性を(数学がそうであるように)作り出そうとしてきた。そこでは、たとえば、「存在とは無ではないものである」「一とは多ではないものである」「同とは他ではないものである」、といった概

          【解説】竹田青嗣『欲望論』(10)〜言語ゲームと現象学

          【解説】竹田青嗣『欲望論』(9)〜ポストモダン思想の根本問題

          1.脱構築 現代哲学において、あいも変わらず続けられている「形而上学的独断論 VS 相対主義」の構図。  前回の言語哲学に続いて、今回はデリダの「脱構築」、およびドゥルーズの「差異」について論じていこう。  知られているように、『声と現象』において、デリダはフッサールを批判して、絶対的な「今」「ここ」などないことを主張した。  あるのはただ、「差異の運動」だけである、と。  絶対的な「今」の観念を、時間性を詳細に分析するなら「今」はそれ自体としては存在しない、というパ

          【解説】竹田青嗣『欲望論』(9)〜ポストモダン思想の根本問題

          【解説】竹田青嗣『欲望論』(8)〜言語論的転回の「錯覚」

          1.現代の言語哲学 前回は、現代哲学においても、結局変わることなく繰り返されている「形而上学的独断論 VS 相対主義」の見取り図を述べた。  今回は、その中身を少し詳しく見ていくことにしよう。  まずは、現代の言語哲学について。  竹田は初めに次のような挑発的なことを述べる。 「言語論的転回」というかけ声とともに、伝統的な認識の構図と諸概念は完全に顛倒されるというマニフェストが発せられた。しかしこれ以上馬鹿げた錯覚はありえない。むしろそこに現われたのは、正確に、「独対

          【解説】竹田青嗣『欲望論』(8)〜言語論的転回の「錯覚」

          【解説】竹田青嗣『欲望論』(7)現代哲学は、結局ふたたび「独断論的形而上学 VS 相対主義」図式に舞い戻ってしまった

          1.現代の相対主義 フッサールが終わらせたはずの形而上学的独断論と相対主義の対立は、弟子のハイデガーのカリスマ的な影響力によって、結局、その後の哲学において忘れ去られてしまうことになった。  その結果、いまもなお、ハイデガー的「本体論」と、それに寄生する「相対主義」との対立が、延々と続いてしまっているのだ。  以下では、まずその見取り図を。詳細は、また後で見ていくことにしたいと思う。  まずは、論理実証主義による形而上学的独断論批判を見ていこう。  これはいわゆる「観

          【解説】竹田青嗣『欲望論』(7)現代哲学は、結局ふたたび「独断論的形而上学 VS 相対主義」図式に舞い戻ってしまった

          【解説】竹田青嗣『欲望論』(6)〜ハイデガーによる現象学の展開と、致命的な後退

          1.ハイデガーの功績 前回論じたフッサール現象学を、この後、竹田はさらに鍛え上げていくことになる。  しかしその前に、このフッサールの功績を、さらに一歩進めた弟子のハイデガーについて論じておかなければならない。  まずその功績について、竹田は次のように言う。  ハイデガーの「存在配慮相関性」は、人間の身の回り(周囲世界)の諸対象の存在意味(ノエマ)を欲望相関的存在者として把握した点で、フッサール現象学に対する一つの決定的な優位をもつ。〔中略〕さらに彼は、世界の「客観認識

          【解説】竹田青嗣『欲望論』(6)〜ハイデガーによる現象学の展開と、致命的な後退

          【解説】竹田青嗣『欲望論』(5)〜フッサール現象学の原理

          1.フッサール現象学の原理 形而上学的独断論と、相対主義。  これら双方の対立を完全に終わらせるものとして登場したフッサール現象学の原理について、竹田はまず次のように言う。  フッサールの方法によって導かれる、認識論の解明の根本課題は二つ。 (1)ある領域で普遍認識が成立するその条件と構造を解明すること。 (2)なぜこれまで普遍認識が自然科学、数学の領域に限定されていたかを解明し、ついで、人文科学の領域でこのことが可能となるその可能性の条件を解明すること。  では具体的

          【解説】竹田青嗣『欲望論』(5)〜フッサール現象学の原理

          【解説】竹田青嗣『欲望論』(4)〜ニーチェ、フッサールによって、ついに問題の解明へ

          1.ニーチェによる「本体論」の解体 こうして、ついにニーチェによる「本体論」の解体が哲学史に登場する。  竹田はまず次のように言う。  忘れるべきでないのは、あらゆる種類の本体論の背後にはつねに内的動機が潜んでいるということである。ある場合には敬虔な信仰、ある場合には美しき世界への憧憬、ある場合には世界の現状に対する倫理的抗議、またある場合には、単なるシニシズムあるいはデカダン。  ニーチェによる本体論の解体の遂行には、つねに本体論を支える動機についての鋭い本質的洞察第が

          【解説】竹田青嗣『欲望論』(4)〜ニーチェ、フッサールによって、ついに問題の解明へ