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【解説】竹田青嗣『欲望論』(10)〜言語ゲームと現象学

1.言語哲学の問題

 前々回は、竹田による現代言語哲学批判を見た。

 少しだけおさらいしておこう。

 現代の言語哲学は、一方で、言語を厳密に規定することで客観性に到達しようと試みる(ラッセルなど)。

 論理学は、概念と記述の一義的な規定可能性を探究することによって、言語の万人にとっての論理操作の同一性を(数学がそうであるように)作り出そうとしてきた。そこでは、たとえば、「存在とは無ではないものである」「一とは多ではないものである」「同とは他ではないものである」、といった概念の一義化が規定される。論理のこのような一般形式化と規定規則の厳密化、表現された命題における「意味」の普遍的同一性を確保するとみなされる。

 しかし他方で、そんなことは不可能であることがすぐさま主張される(サール、ストローソンなど)。

 要するに、ここで繰り広げられているのは、またも意味の「同一性」(本体)とその不可能性(相対化)の対立なのだ。

 竹田は言う。われわれはこの意味の「本体論」を解体して先へ進まなければならないが、それは論理学的地平においては不可能なことである、と。

 「意味」の本質の問題を(その多様なパラドクスともども)解明するには、意味の問いを論理学的地平から引き離し、意味の本体論を解体して、これを現象学的−欲望相関的意味論の地平へと差し戻さねばならない。論理学的な意味論の地平では、「語」あるいは「命題」「文」の意味は、形式化され一般化されたものとしての「一般意味」(一般意味表象)しか表示することができない。だが、発語された言語(「語り(パロール)」すなわち企投的な「現実言語」においては、語(あるいは言述)の意味は本質的に「企投的意味」であって、一般意味はこれを媒介するだけである。

2.言語の本質

 言語の本質は、その厳密な論理性の追究(言語の数学化)によっては解明することができない。

 竹田は、言語はむしろ次の2つの本質構造から理解されねばならないと言う。

 すなわち、「一般意味表象」と「企投的意味」。

 前者は、「青」「空」「人間」といった概念の、まさに一般的な意味のこと。

 後者は、この「一般意味表象」を媒介に、己の「意」を伝えるものである。

 従来の言語哲学は、この「企投的意味」を十分捉えることなく、ただ「一般意味表象」のみを分析してきた。

 しかしじつのところ、言語の本質は、「一般意味」を媒介に「企投的意味」を伝えるところにこそあるのだ。

 たとえば、私が「空が青い」と言ったとする。

 その「一般意味」だけを見れば、それは「空が青い」という事実を言明したにすぎない。

 しかし「企投的意味」を考慮に入れると、私はこの言葉を通して、「しかし自分の心は灰色だ」とか、「この世は希望に満ちている」とかいった「意」を伝えたいのかもしれない。

 私たちは、言語によって「一般意味」の交換だけをしているわけではない。と言うより、そのようなことはありえない。「空が青い」と言った私は、その事実をただ事実としてだけ伝えたかったわけではない。たとえその事実をこそ伝えたかったのだとしても、それを通して何らかの「意」を伝えたかったのだ。(気持ちがいいね、あなたもそう思うよね?など)

 再び、言語とは、「一般意味」を媒介に、「企投的意味」を交換し合うところにこそその本質を持つものなのだ。

 それゆえ、論理学がどれだけ「一般意味」の形式的な論理構造を明らかにしようと試みたところで、それは様々なパラドクスを生み出すだけで、言語の意味の本質にたどり着くことは決してない。 

 ここに、従来の言語哲学が、「本体論」と「相対主義」の対立を繰り返してきた最大の理由がある。

 一方で、私たちはどうすれば言語を厳密に使用することでその「意味の本体」にたどり着けるかを問う哲学者たちがいる。

 他方で、そんなことは不可能であることを、延々と指摘し続けるだけの哲学者たちがいる。

 しかし彼らは、言語もまた「欲望相関的」な世界分節にほかならないという、きわめて基本的かつ根本的なことを見落としていたのだ(竹田哲学の最重要原理である「欲望相関性の原理」の詳細は、後でまた論じることにしたいと思う)。

 モノの「名」は、欲望相関的体験の総括としての「概念」である。「コト」に関しても事情は同じである。
 こうして、事物はその「名」(語)をもち、「語」はその指示対象を意味するというとき、われわれは「名」や「語」の意味の発生的本質をいわば忘却している。そのために「語」はそれ自身のうちに意味をもつとみなされ、同様に「対象」はさまざまな意味を内含するといわれる。しかし対象とその名(語)がもつ意味は「一般意味」にすぎず、それはわれわれの生の実践的関係のうちで生成する意味の一般痕跡にすぎない。

 こうして、欲望相関的な言語論を底に敷くことができて初めて、私たちはついに、さまざまな言葉の意味の本質を明らかにすることができるようになるのだ。

3.言語ゲームと現象学

 竹田によれば、言語哲学の本来の仕事は、企投的意味の交換が実際になされている場、すなわち「言語ゲーム」(ウィトゲンシュタイン)を元に、言語の本質を解明することにこそある。

 このことについて、竹田は次のように言う。

 意味の本質に接近するには、まず言語的意味の本質へと接近しうる方法が必要である。論理学の地平においては言語の意味の本質に接近することは決してできない。なぜなら論理学は、言語行為の痕跡的秩序(=一般言語表象)についての形式的体系化であり、そのことで言語的意味の本質部分をあらかじめ消去しているからである。
 言語的意味の本質へと接近するには、企投的実践としての言語行為の本質を捉えねばならず、それゆえ「言語ゲーム」の本質を考察しなければならない。

 言語的意味の本質は、企投的意味の本質を洞察することによってしか解明しえない。

 たとえば、「美しい」にしても「好き」にしても、その「一般意味」をどれだけ並べ立てたところで、その意味の本質にたどり着くことはない。

 私たちがやるべきは、「美しい」や「好き」といった言葉を、私たちがどのような「企投的意味」において使用しているか、その本質を洞察することなのだ。

 それはつまり、言語の本質を「言語ゲーム」の営みにおいて洞察するということだ。

 ここに、現象学的本質観取とウィトゲンシュタインの言語ゲーム論を切り結ぶポイントが見出されることになる。

 一見奇異に思えるかもしれないが、現象学とウィトゲンシュタインの言語ゲーム論は、じつは互いに支え合う関係にあるのだ。

 現象学は、一切を私(超越論的主観性)の「確信」へと還元し、その「確信成立の条件」を解明するという方法を取るものだった。

 この課題を、私たちはさらに、言語ゲームにおける「確信成立の条件解明」という課題へと発展させることができる。

 すなわち、さまざまな意味や価値を、私たちは言語ゲームにおいてどのように確信しているのか。「美しい」や「好き」という言葉を、言語ゲームにおいてどのように用い、そしてその本質を、どのように共同確信しているのか。

 この問いを問い合うことで、私たちは、さまざまな人間的な意味や価値の本質(美しいとは何か、愛とは何か、教育とは何か、正義とは何か、等)を、本体論にも相対主義にも陥ることなく、洞察していくことができるようになるのだ。

 すなわち、現象学的本質観取。

 本書で竹田は、そうしたさまざまな意味や価値の本質観取を繰り広げていくことになる。

 しかしその前に、次回は、このような本質観取の土台となる原理について、さらに論じることにしたいと思う。

 竹田がフッサールをさらに展開して明示した、「欲望論」の原理についてである。

(続く)

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