見出し画像

【解説】竹田青嗣『欲望論』(8)〜言語論的転回の「錯覚」

1.現代の言語哲学

 前回は、現代哲学においても、結局変わることなく繰り返されている「形而上学的独断論 VS 相対主義」の見取り図を述べた。

 今回は、その中身を少し詳しく見ていくことにしよう。

 まずは、現代の言語哲学について。

 竹田は初めに次のような挑発的なことを述べる。

「言語論的転回」というかけ声とともに、伝統的な認識の構図と諸概念は完全に顛倒されるというマニフェストが発せられた。しかしこれ以上馬鹿げた錯覚はありえない。むしろそこに現われたのは、正確に、「独対論」対「相対主義的懐疑論」という古典的対立の20世紀的変奏、すなわち、厳密論理主義対相対主義的論理主義批判、という古典的な認識論的対立の反復だからである。

 20世紀、「言語論的転回」の名のもとに、言語哲学が隆盛を極めた。

 人間の認識は言語によって織りなされているのだから、従来の哲学のように、主観はいかに客観に的中することができるかという問題構図は、むしろ言語分析へと転回されなければならないとされたのだ。

 しかし竹田によれば、これは何ら新しい問題設定ではない。

 対象−認識あるいは客観−主観。この構図に「言語」という項目を挿入すると「対象−言語−認識」あるいは「客観−言語−主観」となる。さらにそれは「対象−認識主体−言語主体−言語−受語主体」といった構図へと展開される。古典的認識論の困難が主観と客観、対象と認識の「一致」の不可能性という点に焦点化されていたとすると、現代言語哲学ではその焦点は、言語主体−言語−受語主体における「意味」の一致(=同一性)の不可能性の問いとして現われるのである。
 しかし、われわれがここにゴルギアス・テーゼを置き入れるなら、問題の核心はまったく不変であることがただちに理解されるであろう。

 20世紀の言語哲学、すなわち論理実証主義も分析哲学も、結局のところあのゴルギアス・テーゼの現代版にすぎないのだ。

 その問題の核心は次のように言い表すことができる。

 一方には、「厳密規定」の可能性を論証しようとする議論(前期ウィトゲンシュタイン、カルナップなど)があり、他方にこれを帰謬論によって否認しようとする議論(後期ウィトゲンシュタイン、クワインなど)があり、そしてその中間的調停派(ストローソン、クリプキ、オースティン)などのいわば折衷的議論がある。すなわち、ここで議論は世界と価値の本体論の代わりに「意味の本体論」をめぐるが、この本体を解体する原理はどこにも見出すことができない。
 論理学はいわば意味の数学化であって、記号と意味の連結を厳密に規定することで記号=意味の同一性を実現し、そのことで記号(言語)につきまとう多義性を排除しようと試みる。しかし、ここでは、言語記号の本質はまさしくそれが意味の多義性を含むという点にある、ということが理解されていない。言語記号は多義的な意味を孕みうることでまさしく言語としての本質を保つが、論理学は言語が多義的意味を含むその構造的本質を解明するのではなく、それを単数的意味へと規範化する試みにほかならない。
 しかし論理学はむしろこのことによって、必然的に「意味の謎」にぶつかる。

 論理実証主義は、言語を厳密に使用することで世界の正しい認識をもくろんだ。

 しかしその後の言語哲学は、後期ウィトゲンシュタインの影響のもと、そのようなことは不可能であるという主張を繰り広げた。

 要するに、ここでも見られるのは、言語が的中すべきとする「意味の本体」と、それを相対化する思想の対立なのである。

2.ウィトゲンシュタイン

 たしかに、『哲学探究』における後期ウィトゲンシュタインの功績には動かしたがたいものがある。

 その要諦は次のように言える。

(1)語の意味を、厳密に規定することはできない。それは必ず多義性をもつ。
(2)語が意味を一定の規定において表示するためには、暗に表示の規則が存在するのでなければならない。
(3)しかし、個々の語の意味規定の規則も、語の配列的意味の規則も、これを厳密には規定できず、また事前にこれを規定することもできない。言語がそのつど必要とする言語規則(意味規定のルール)は、いま行なわれている言語、ゲームがどのような言語ゲームかという了解によってのみ規定される。しかしそれがどのような言語、ゲームであるかは、ただそこで用いられている言語のルール(用法)によってしか決定されない。

 しかしウィトゲンシュタインのすぐれた点は、それゆえ言語哲学は相対主義に陥るほかないと主張したところにあるわけではない。

 言語の多義性にもかかわらず、なぜ、そしてどのような仕方で言語ゲームが成立しうるのかを、解き明かす必要があると言ったところにこそあるのだ。

 注意すべきはウィトゲンシュタインの問い方であって、彼はこれらの例を、解決不可能なパラドクスとして、すなわち相対主義の立場から厳密認識論の不可能性の論証として示してはいない。彼はこのパラドクスは相対主義の主張の正しさを示すのではなく、むしろこのパラドクスを解明するなしには意味の本質に届くことはできない、という仕方で問題を提示している。

3.「言語論的転回」の錯覚

 しかしウィトゲンシュタイン以降の言語哲学は、その後、言語の意味は厳密に規定することができないということばかりを延々と繰り返すことになった。

 この主張は、相も変わらず、あの第3のゴルギアス・テーゼに正確に対応するものである。

 すなわち、「存在は決して言語化されない」。

 しかしこれもまた、結局のところ存在やその意味の「本体」が仮定されているがゆえに起こる疑似問題なのだ。

 「本体論」を解体すれば、その瞬間、この問題もまた消失してしまう。

 20世紀言語哲学における「言語論的転回」の「錯覚」を、竹田は次のように総括する。

 第一の錯覚は、論理学によって認識の超越論的構成の問題に新しい照明を当てうるという錯覚。

 第二に、厳密論理主義によって厳密認識の新しい可能性を見出せるという錯覚。

 第三に、論理相対主義によって厳密論理学主義を批判すればこの問題は解明される、とする錯覚。

 そして言う。

 現代言語論における「意味の同一性規定」というテーゼ自体を、認識論的に顛倒しなければならない。言語記号は本質的に多義的である。にもかかわらず、言語はある仕方でそのつど意味を一義的に規定する。その構造的本質を現象学的−欲望論的に把握しなければならない。

 言語には多義性があるがゆえに、「意味の同一性」(意味の本体)などには到達しえない。それは言うまでもないことだ。

 しかしその上でなお、われわれはコミュニケーションにおいて言語のある程度の一義性を共同確信することがある。

 それはいったい、なぜなのか。そして、どのようにしてなのか。

 その本質構造は、「意味の本体」論を解体した末の、「現象学‐欲望論」によってのみ解明することができる。

 そのことについては、次々回で論じることにしたいと思う。竹田による、新しい言語哲学、言語の本質論である。

 しかしその前に、次回は、現代言語哲学と双璧をなす、ポストモダン思想の批判的検討をしていくことにしたいと思う。

(続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?