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【解説】竹田青嗣『欲望論』(18)〜芸術の本体論 VS 相対主義的芸術論

1.芸術の「本体」論

 続いて、竹田は「芸術」の本質へと筆を進める。

 従来、哲学的芸術論には何かしらの「本体論」がつきものだった。

 たとえばカントは次のように考えた。

 芸術の与える感銘の本質は、神のみが造り出しうる自然の形象の驚くべき美(合目的性)を、特別の才に恵まれることで人間も創出しうることへの驚きであり、それゆえ天才のみが芸術の担い手である——。カントのこの見解は、芸術とは神の業の人間的模倣であり、それ自体が一つの賜物であるという観念に支えられている。

 カントにおいては、芸術は神の業の模倣とされたのだ。

 ショーペンハウアーは、カントの「物自体」を「盲目の意志」に置き換えたが、彼によれば、この「意志」がさまざまな仕方で客観化されたものが「イデア」であり、芸術はその純粋な観照においてのみ可能になるものである。

 われわれに現われ出ている無数の個体はいわば客観化された「意志」であり、その諸相はそれぞれの個体の到達しえない模範、あるいは「事物の永遠の形相」として存在する。個体がたえず発生消滅を繰り返すのに対して、この根本的意志の客体化としての「永遠の形相」は決して消滅しない。こうして人間の認識は本質的に「イデア」の認識にかかわり、主体の主体性を消し去ったところに生じる純粋な観照によってのみ可能となる。

 ここにもまた、芸術のあからさまな「本体」論があるのだ。

 ハイデガーの芸術論はどうだろう。

 後期ハイデガーの『芸術作品の根源』には、彼の後期作品に特有の「空け開け」や「明るみ」といった言葉が連発される。

 これらの言葉は、哲学的にはただ1つのことを言っているにすぎないと竹田は言う。

 それは、ニーチェの力相関性(欲望-身体相関性)のハイデガー的変奏、すなわち「気遣い」相関性の寓喩である。「明るみ」「空け開け」は後期ハイデガーにおいて用いられる「無」や「贈与」の概念とほぼ等価だが、これを簡潔に命題化すれば以下となる。第一に、あらゆる存在者はただ人間における「現」という「空け開け」の場所においてのみ自らの存在とその存在意味を開示する。第二に、「存在の真理」は、本来的な実存への企投という「明るみ」の場面においてのみ自らを開示する。ハイデガーは、第一の命題から第二の命題を取り出すが、前者は存在審級論の根本テーゼであるのに対して、後者はその形而上学的な真理本体論への差し戻しである。

 前に見たように、「気遣い相関」というすぐれた認識論を展開したハイデガーだったが、後期において彼は、「存在の真理」は本来的実存の「明るみ」においてのみ開示されるという独自の形而上学を繰り広げることになったのである。

 そして芸術は、ハイデガーに言わせればこの「存在の真理」を開くものである。

 芸術は一つの「世界」を、すなわち「まことの世界」を開き、うち立てる。この世界は現実世界に対抗する基盤としての「大地」である。作品は「大地」としての世界を開くことで、現実世界に対抗する。芸術は、現実世界とのこの闘いを通して、人びとに「存在の真理」を勝ちとらせる。

 ここにもまた、芸術のあからさまな「本体」論があるのだ。

 ハイデガーを継承したガダマーなどの解釈学は、ある意味ではさらにタチが悪いと竹田は言う。

 ガダマーの芸術論およびその基盤となる認識論について、竹田は次のように言う。

 一切の認識には主体の解釈(企投)がかかわる。主体の解釈は正しい実存企投か誤った実存企投のいずれか、つまり本来的な了解であるかそうでないかのいずれかである。正しい実存企投においては「存在の真理」が開示され、誤った実存企投による解釈からは通俗的客観的な対象認識が結果する——。
 これは、形而上学的認識論であることを超えてもはや、神学的認識論の基本型というほかはない。そして、ガダマーとハイデガーがその隠語的謎言話法で覆い隠そうと努めるのは、動かしようもなく明らかな神学的真理認識のロジックにほかならない。

2.相対主義的芸術論

 これまでのさまざまな認識論、存在論、言語論が、例外なく「形而上学的独断論」と「相対主義」の対立に行き着いたように、芸術論もまた、正確に同じ対立を繰り返してきた。

 先に見たショーペンハウアー、ハイデガー、ガダマーらの「本体論」的芸術論があれば、これをとことん相対化する芸術論もまた存在してきたのだ。

 芸術論における独断論と相対主義について、竹田は次のように言う。

 現代の芸術論の舞台は、「テクストに虚心に耳を傾けよ、「真理」が君の耳に届くまで」という形而上学的芸術的司祭たちの教説と、「テクストからどんなものも好き勝手に解釈することができる」という知的相対主義の僧侶たちとで、足の踏み場もないほど混雑をきわめている。

 では、独断論にも相対主義にも陥らず、芸術の本質を私たちはどのように洞察することができるだろうか?

 次回、最終回では、竹田による芸術の本質観取を検討することにしたいと思う。

(続く)

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