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【解説】竹田青嗣『欲望論』(14)〜「身体」の本質観取①

1.「快−不快」「エロス的予期−不安」

 ここからは、『欲望論』第2巻の内容を紹介・解説していこう。

 第1巻では、意味や価値の本質を解明するための現象学ー欲望論的方法が明らかにされたが、第2巻では、それを実際に展開し、「身体」「善悪」「美」「芸術」などの本質観取が行われる。

 今回は、まず「身体」について。

 これは、第1巻の最後(前回)ですでに取り組まれていたテーマである。竹田が取り出した「身体」の3つの本質契機を、改めて確認しておこう。

(1)私にとって、身体は「エロス的世界感受」の中心である。

(2)それを元に、私たちは身体を通して自らの「ありうる」(存在可能)を目指す。

(3)そして身体は、そのことを可能にする当のものである。

 これが「身体」の本質の3契機として見出されたものだが、続く本巻では、まずこれら3つの本質契機の内実および発生論が展開される。

 まず、(1)「エロス的感受」とはいったい何か?

 その最も原初的な感受は、「快ー不快」の分節である。

 身体は、最も原初的には、必ず「快ー不快」という次元において存在している(と、私たちに確信されている)。

 前回述べた通り、もしも私たちの身体が一切の「快ー不快」を感じることがなくなったとしたら、私たちは、それを「自分の身体」と確信することができなくなってしまうであろう。

 ちなみに、「快」について、竹田は次のような興味深い洞察をしている。

 身体的エロスの本性において、「快」の本質は第一義的に「貪ること」すなわち「享受」であって、「回復すること」、定常状態への復帰ではない。快の本性はいわば「もっと」を求める「力への意志」であって、回帰への欲望とはいえない。いいかえれば、快の第一義的本性は、「乗り越え」であって「打ち消し」ではない。
 このことは、不快や苦痛からの解放が快(エロス)であるか否かは、その定常状態への回復の速度が問題であることを示している。ある原因で不快や苦痛を抱えている者からこの原因となるものを瞬時に取り除いてやるなら、たとえばひどい苦行の時間が終わったその瞬間には、苦痛からの解放は大きな快(エロス)であるに違いない。しかし不快や苦痛が長い時間をかけていつの間にか消失するという場合には、それが消え去っていることにふと気づいたとき、ただ「苦痛」が消失したという意識においである種の「快」が現われるが、それは身体的なエロスの生成とはいいがたい。

 快とは不快からの回復である、としばしば言われるが、それは違うと竹田は言うのだ。

 快の本質は「貪り」「享受」にあるのであって、不快からの「回復」にはない。もし不快からの「回復」において快を感じることがあったとしたら、その本質はその「速度」の享受にあるのだと。
 
 「快」についての、すぐれた本質洞察と言えるかと思う。

 ところで、このような「快」(=エロス的欲求)を人間が求めるのは、種の保存のためである、としばしば言われるが、これについても竹田は次のような的確な批判を行っている。

 エロス的欲求は、結局のところ生き物の死の衝動に奉仕しているのだという推論的空想は、人間が恋をするのは人類の種の保存の欲動の現われであるという空想的推論と同種である。人間的事象の「本質」について洞察することが問題である場面では、こうした一切の種類の空想的仮説をエポケーする習慣を身につけねばならない。

 哲学的には、このような言説はどこまでも可疑的な仮説であって、ここを始発点にして思考を始めることは許されない。

 私たちに疑えない思考の始発点は、われわれはこのようなエロス的欲求を持った存在であるということまでであって、その根拠を「意識の背後に回って」突き止めることはできないのだ。

 したがって、何度も繰り返してきたように、「身体」の原理論(本質論)は、「身体」がどのような本質を持ったものとして私たちに「確信」されているか、その本質条件を明らかにするという方法をとるほかないのだ。

 さて、私たちの身体が「快ー不快」という分節を持つということは、私たちは、つねにすでに、「エロス的予期ー不安」を根源的な世界分節の仕方として持っているということである。

 私たちは、「こうすればもっと快が得られるかもしれない」「こうなれば不快がやってくるかもしれない」といった、「エロス的予期ー不安」をつねに持ち、そのことを世界認識や行動の源として生きているのだ。

 当たり前のことではあるが、このこともまた、私たちは自らに問うという仕方でまず“確かめる”ことができるであろう。

2.ハイデガーの「不安」とレヴィナスの「享受」

 ところで、エロス的力動の根本(根本情状性)と言えば、ハイデガーの「不安」の概念がよく知られている。

 ハイデガーは、人間はその根本において、つねに根源的な「不安」を抱えていると言うのだ。

 これについて、竹田は次のように言う。

 その全体構想には、暗黙の形而上学的理念化が前提されている。人間実存の根本的本質として「情状性」「了解」が措定され、根本情状性としての「不安」の根底には「死」の観念が想定される。さらに、死の観念、不安(存在不安)の情状性、不安の打ち消しとしての配慮的気遣い、死の観念あるいは実存の一回性の隠蔽、頽落、非本来性と存在忘却、という下図の上に、死の自覚、良心の呼び声、先駆的決意性、本来的な実存への企投、といった実存理念の全体像が描かれる。

 これまでに見てきたように、ハイデガーの「気遣い相関性」の原理は、竹田「欲望論」の嚆矢と言ってよいものであり、フッサール現象学を大きく前進させるものだった。

 しかし同時に、これまで見てきたように、ハイデガーは彼特有の形而上学的「本体」論をその哲学に忍ばせていた。

 一切の存在者の存在を可能にするものとしての、「存在」という本体論である。

 根本情状性としての「不安」の概念は、この本体論と密接に関係するものである。

 ハイデガーによれば、人間は死のゆえにその根本に「不安」を抱えている。そしてそれゆえに、その不安を打ち消し「頽落」しながら生きている。

 この頽落から脱却し、「本来的」な生き方をせよ。自らの「不安」、とりわけ「死の不安」を隠蔽することなく、死に対する「先駆的決意性」を持って生きよ。これがハイデガーの本来的生き方の形而上学である。

 しかし私たちは、このような生き方が本当に「本来的」な生き方と言ってよいのだろうか。

 人間はその存在の根本において「不安」を抱えているというのは、おそらくその通りである。しかし、だからこそこの「(死の)不安」を直視し、頽落から這い上がり、「本来的」な生き方をせよ、というのは、ハイデガーのほとんど趣味の次元の思想と言ってよいものなのではないか?

 ところで、このハイデガーの「不安」に対抗したのが、レヴィナスだった。

 彼が人間の生の基底としておいたのは「享受」である。

 レヴィナスはむしろ、人間の生の基底を、存在不安としてではなく、エロス性、糧、味わうこと、すなわち「享受」としておく。

 レヴィナスは、絶対の「他者」を「享受」することこそが、いわば「本来的」な生き方であると主張するのだ。

 しかしこれもまた、レヴィナスの独自の形而上学と結びついた概念である。

 レヴィナスが打ち立てたかったのは、「私」に決して取り込まれることのない絶対的な「他者」の概念だった。レヴィナスは、この絶対的な他者を「迎えいれよ」「享受せよ」と説くのである。

 竹田は言う。

 ハイデガーでは人間に本来的な実存可能性を贈与する「存在」概念が捏造され、レヴィナスでは人間の「徹底的エゴイズム」を審問する超越的根拠としての「他者」概念が贋造される(このような独断論的理念設定は、20世紀に入っても、シェーラー、ブーバー、西田、ドゥルーズなどに典型的に見出される)。

 要するに、ハイデガーもレヴィナスも、自らの形而上学的思想を根拠に、人間が“持つべき”根本情状性を強弁しているにすぎないのだ。

 しかし、このような“確かめ不可能”な形而上学から人間の根本情状性について論じる方法は無効である。

 竹田によれば、人間が持つ根本情状性は、ハイデガー的「不安」でもレヴィナス的「享受」でもない。

 むしろ、「不安」と「享受」の二元性こそが根本情状性であり、世界分節の原理なのだ。

 「快–不快」と「エロス的予期–不安」は、あらゆる生き物(意識生)にとって、世界分節の根源的契機である。実存的な「内的体験」の世界は、客体化され客観化された世界に対する発生論的先行性をもち、その洞察上の順序的優位を逆転させることはできない。論理的に「同一性」を「差異」に先立てたり、「差異」を「同一性」に対抗させて理念的優位を与えたりすることが無意味であるように、不安にエロス的享受に対する優位を与えることも、あるいはエロス的享受を不安に先行させることも無意味である。このような優位の付与はただ秘匿された理念的動機からのみ現われる。
 この二元性こそが世界分節の根本原理だからである。

 私たちの根本情状性、あるいは世界分節の源は、「エロス的予期ー不安」の分節である。このことを、私たちはやはり、自らにおいてしっかりと“確かめる”ことができるであろう。

 次回は、「身体」の第2、3本質契機である、「存在可能」と「能う」について見ていくことにしたいと思う。

(続く)


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