【解説】竹田青嗣『欲望論』(13)〜「他我」および「身体」の本質
1.他我の本質
次に竹田は他我の本質観取へと進む。
時間と同様、これについてもフッサールの本質洞察がある。
しかしここでもまた、フッサールに欲望論の構えがなかったために、その分析は十分核心にまで迫っていない。
フッサールによれば、私たちは他者が自分と同型の身体を持った存在であることから、他者へと感情移入し、他者もまた自分と同じように世界を確信している存在であることを確信する。
しかし竹田は言う。
他我への「自己投入」による他我存在の確信が生じ、そこから他我もまた周囲世界の対象についての存在確信を「私」と共有しているという自然な確信が成立し、そのことでわれ客観世界の確信をたえず形成している、という論理の順序性はある違和感を与える。
その最大の理由は次のように言われる。
さまざまな事物確信とほぼ似た構造で、われわれは他者知覚についての指標的知覚をすでに形成しており、一定の知覚指標によって一瞥のうちに(とくに「身体」的自己投入を介することなく)ある事物を他者身体であると信憑する。
私たちは他我存在を、何らかの順序性においてではなく、無媒介に、一瞥のうちに確信しているはずなのだ。
では、この一瞥のうちに、私たちは他者をどのような仕方で確信するのか。
第一に、他者は、用在的対象として遇される場合もあるが、しかし本質的に、「私」とは独立した意志、判断、思念、感情などをもつ一つの「主体的意格」として「私」に向き合って現われる。
第二に「他者」は、そのつどの関係において、「私」に対してさまざまな主体的存在本質を示すものとして現われる。他者は、ある場合には、レヴィナスが示唆したように「女性的なもの」「善良なもの」として、また「師」や「異邦人」としての「顔」において顕現する。すなわち他者は、「家族」「友人」「親密なもの」という相において「エロス的他者」として現われ、また相互承認的、契約的「他者」として、さらに強大な力によって的な絶対他者として現われる。
第三に「他者」は、「私」にとって単なる他の意志や威力を表明し表現する主体的他者であるだけでなく、その内的な意格の表現性を「私」がたえず了解し、把握しようとする独自の他性、すなわち、了解の欲望の対象としての他者でもある。
1.主体的意格として、2.様々な相において、そして、3.了解対象として。
これが「他者」というものの存在が確信される際の本質条件である。竹田はそう言うわけだ。
逆に言えば、これら3つの本質条件を欠いたものを私たちが「他者」と認識することはない(ロボットなど)。
竹田の論が本当にそう言えるどうか、私たちは後追いして“確かめる”ことができるはずである。
2.身体の本質
次に身体について。
これについてはメルロー=ポンティの優れた本質洞察があるが、竹田は彼を一部批判しつつ、身体の本質を次のように言う。
「身体」とは、たえず情動と衝迫によってあるいは快と不快のエロス的力動によって「私」を制定し、拘束し、そのことで「私」を「われ欲す」(欲望)と「われ意志す」(企投)へと促す実存的「力動」の中心である。
身体は、実存のエロス的力動の中心なのだ。
その契機を、さらに次のように描き出すことができる。
第一に、身体は「私」にとってエロス的世界感受である。
第二に身体は、エロス的力動によって意識を衝迫し、そのことでたえず新しい実存の目標を作り出す。すなわち「存在可能」(ありうる)の源泉である。
第三に身体は、この存在可能性へと企投する力能としての「能う」である。
(1)私にとって、身体は「エロス的世界感受」の中心である。
(2)それを元に、私たちは身体を通して自らの「ありうる」を目指す。
(3)そして身体は、そのことを可能にする当のものである。
以上のような身体を、単なる物理的身体とは区別して、竹田は「主権的身体」と呼ぶ。
こうした身体の実存的本質、エロス的世界感受として存在し、対象への衝迫と欲望として存在し、そして欲望の実現可能性の「能う」として存在する実存の身体を、わたしは「生理的–物理的身体」と区別して「主権的身体」と呼ぼう。
竹田が取り出した「身体」の3つの本質契機は、私たちが必ず自ら後追いして“確かめる”ことができるものである。
その“確かめ”の際、私たちは、もしこれらの本質契機のうち1つでも欠けた場合、それを「身体」と「確信」できるだろうかと問うてみればよい。
たとえば、「エロス的世界感受」の中心としての身体。
もし、私たちが自らの身体において、何らの「エロス的世界感受」も感じることがなかったとすれば、私たちはそれを「自分の身体」と思うことができるだろうか?
たとえば、「お腹が空いたー満たされた」「体が汚れて気持ち悪いー温泉に浸かって気持ちがよい」などの「快ー不快」を思い浮かべてみるといい。
こうした「エロス的世界感受」が一切なくなってしまった時、私たちは自分の体を「自分の身体」と確信することができなくなるに違いない。
他者の「身体」についても同様だ。もし私たちが、誰かが火あぶりにされているのを見たとして、しかし何の苦痛も感じていないように見える時、私たちは、それは実はこの人の「身体」ではないのではないかと疑うに違いない(ロボットなのか? もしや神の化身なのか?)。
「身体」の本質観取は次回も続くことになるが、ひとまず以上、竹田による時間、他我、身体の現象学–欲望論的本質観取を見てきた。
繰り返すが、この洞察は、それぞれの客観存在を明らかにしたものではない。そのような「本体」などどこにもない。
重要なのは、これらの現象が私たちの現前意識にどのように確信されているかだ。
したがって繰り返すが、私たちは竹田の本質洞察を自ら後追いして”確かめる”ことができる。
「差異の運動」(デリダ)だとか、存在者を可能にするものとしての「存在」(ハイデガー)だとかいった、確かめ不可能な言説への逃避はどこにもない。
もし竹田の分析が十分に言葉を尽くしていないものであるなら、私たちはそれをさらに深めることができるし、またそうすることが求められている。
まさにそれこそ、哲学の営みにほかならないからだ。
(続く)
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