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【解説】竹田青嗣『欲望論』(6)〜ハイデガーによる現象学の展開と、致命的な後退

1.ハイデガーの功績

 前回論じたフッサール現象学を、この後、竹田はさらに鍛え上げていくことになる。

 しかしその前に、このフッサールの功績を、さらに一歩進めた弟子のハイデガーについて論じておかなければならない。

 まずその功績について、竹田は次のように言う。

 ハイデガーの「存在配慮相関性」は、人間の身の回り(周囲世界)の諸対象の存在意味(ノエマ)を欲望相関的存在者として把握した点で、フッサール現象学に対する一つの決定的な優位をもつ。〔中略〕さらに彼は、世界の「客観認識」一般が人間の実存的世界了解を基底とし、その一般化として成立することを明瞭に理解していた。ハイデガーの功績は決定的であり動かしえないものである。

 世界は欲望・関心相関的存在者として現れる。

 フッサールにはほとんどなかったこの「欲望論」的観点を、ハイデガーは現象学にもたらしたのだ。

 これはニーチェが先駆け、フッサールを経てハイデガーによって再定式化された原理であると言っていい。

 この点を、竹田は高く評価する。

2.ハイデガーの問題

 しかしその一方で、ハイデガー哲学には隠しようのない「本体論」への意志があった。

 彼は現象学を一歩おし進めたと同時に、二歩も三歩も退行させてしまったのだ。

 一方でハイデガーは本質観取の方法を見事な仕方で人間存在の分析に適用するが、しかし他方で、ニーチェ−フッサールによって敢行された「本体の解体」の仕事を、ふたたび存在の形而上学探求へと差し戻す。この奇妙な二重の意義性において、ハイデガー哲学は20世紀最大の問題的哲学となる。

 後期になればなるほど、ハイデガーのその傾向は強くなる。

 ハイデガーの「存在」の本体性は、一切の存在者の存在を可能にするものとしての本体、すなわち一切の存在根拠の根拠性を意味する。それは伝統的形而上学における事物存在の総体(存在者の総体)でも、その究極原因としての存在者(絶対者至上者)でもない。むしろ、これら伝統的な「本体」概念の、現代的に極限化された理念にほかならない。

 一切の存在者を可能にするものとしての「存在」。これはまさに、かつてニーチェによって解体されたはずの「本体」にほかならない。

 ニーチェの思考の原則をなすものも「先構成の禁止」である。それはつぎのように言い表される。《思考が導出されえないものであることは、感覚と同様である。しかしこのことで、思考が根源的であるとか「それ自体で存在するもの」であるとかが、けっして証明されているのではない! そうではなくて、私たちは思考し感覚するはたらき以外には何ものをももってはいないがゆえに、その背後にまわってみることができないということが確立されているにすぎない》(『権力への意志』)

 われわれが欲望=意識存在である以上、この欲望=意識の背後に回って、それを「可能にしているもの」(先構成しているもの)を知ることはできない。

 たとえば、前回書いたように、いま私にはリンゴが「見えてしまっている」。この意識作用を、私は決して疑うことができない。そしてこの「見えてしまっている」を根拠に、私はリンゴの存在を「確信」する。

 ではなぜ、私にはこのリンゴが「見えてしまっている」のだろうか?

 このように「意識の背後」に回ろうとする(先構成を問う)時、私たちはじつは、途端に「本体論」へと逆戻りしてしまうことになるのだ。

 一般的には、「それはそもそもリンゴが存在しているからだ」と言われるだろう。

 しかし繰り返し確認してきたように、私たちはそのことを「前提」することはできない。リンゴの絶対的な実在性を「前提」した瞬間、それは「本体論」に逆戻りしてしまうのだ。すなわち、何らかの絶対的な「客観」がある、と。

 「欲望」(情動)も同様だ。たとえば私は、いま嬉しい気分でいる。それはいったいなぜなのか? その「欲望の背後」に回ろうとすると、私たちはやはり「本体論」へと逆戻りしてしまうのだ。

 それはもしかしたら、今日の天気がいいからかもしれない。内臓の調子がいいからかもしれない。でもその絶対的な原因は、決して分からない。したがってここでも、現象学はエポケー(判断中止)を遂行し続けなければならない。(前期ハイデガーも、『存在と時間』においてはこのことを力説していたはずだったのだが。)

 もしその究極原因を問い続けていけば、私たちは、私たちの欲望の根拠を、遺伝子が私たちをそのようにプログラムしているからだと考えるかもしれない。さらには、結局は神によってそのように創られている、などと考えるようになるかもしれない。

 ここまでいけば、立派な「形而上学的独断論」への舞い戻りである。

 後述するように、現代の物理学主義的哲学は、じつはこのような「形而上学的独断論」への(無自覚の)回帰をしてしまっている。

 いまなお、現象学の意義は、現代哲学においてほとんど理解されないままなのだ。

 とまれ、ハイデガーは、せっかく現象学に「欲望論」的視座を持ち込んだにもかかわらず、最後にはこのような「本体論」へと傾倒していくことになってしまったのだ(むろん、前期からその尾は見えていたのだが)。

 何がわれわれの思考(意識)や感覚を可能にしているかが、何がわれわれの意識のあり成しているのか。この問い、原因の原因を、根拠の根拠をわれわれの「意識」の背後にまわって把握しようとする思考こそ、あらゆる形而上学的、あるいは客観主義的(実証主義的)独断論の源泉である。存在論的現象学者たちは、「存在の深さの次元」に降りて行こうとする。つまり、われわれの意識、思考、感情を可能にしているもの、つまり現象の根拠の根拠であるものを探求しようとする。しかしまさしくここに「本体」の思考が現われるのである。

 ハイデガー存在論は、こうして現代哲学における「本体論」を再び延命させることになった。

 そしてこのことは、現代哲学に致命的な問題をもたらすことになったのである。

(続く)


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