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【解説】竹田青嗣『欲望論』(16)〜善悪の起源

1.発生的本質観取

 前回は、「母」(養育者の総称)と「子」における「言語ゲーム」について見てきたが、竹田によれば、これは人間的価値審級の源泉と言うべきものでもある。

 われわれの仮説は、言語ゲームという成育の環境を欠くなら、「子」は定常的な「関係的身体性」の形成を損なうだけでなく、そのことによって人間的価値審級「よい–わるい」「きれい–きたない」の形成を欠くということ、すなわち、「母–子」の言語ゲームは人間的価値審級の源泉にほかならない、という仮説である。

 人間は、この原初的な「言語ゲーム」を通して、人間的価値の審級(善ー悪、美ー醜などの価値観)を自らのものにしていくのだ。

 以下、その「言語ゲーム」が「母ー子」においてどのように展開されていくかを見ようと思うが、その前に、ここで展開されるのは、いわゆる発生的現象学(発生的本質観取)であることを指摘しておきたい。

 竹田自身、上の引用で「われわれの仮説」と言っているように、この「発生的本質観取」は、原理的には仮説性を排除できないものである。

 たとえば、この後展開される、「善」とは何か、「美」とは何か、といった本質は、私たちに「善」や「美」が感じ取られているその「現前意識」において観取することができるものである。したがって、それは徹頭徹尾“確かめ可能”なものである。

 それに対して、私たちが「善」や「美」の観念をどのように獲得してきたか、という問いは、どれだけ「現前意識」を吟味しても最終的には決定することができないものである。

 特に、私たちは赤ん坊に戻ってその時の「現前意識」を確かめることができない。

 だから、「発生的本質観取」はどうしても仮説性を拭えないのだ。

 しかしそれでも、その仮説的な本質観取を、私たちはそれぞれにおいてある程度は“確かめる”ことができるはずである。

 以下の竹田による発生的本質観取も、ぜひ皆さんに厳しく吟味していただければと思う。竹田の考察に、誤りや、また足りないところがあったとすれば、私たちはそれを訂正・深化していくことができるであろう。

2.「禁止」のはじまり

 さて、最も原初的な「母ー子」の「言語ゲーム」は、まず「要求ー応答」関係として現れると竹田は言う。

 「お腹が空いた」という泣き声(これも言語と呼ぶならば)と、それに対する応答、という関係である。

 しかしここには、やがて「禁止」の項が登場することになる。

 「ダメ」。「母」(養育者)は、ある頃から「子」に対してそのような言語ゲームを開始するのだ。

 「母–子」間の要求–応答関係は、はじめは完全に一方向的なものとして、つねに「子」が要求し「母」がこれに応答する関係として進む。しかし、ある時点でこの関係は逆転する。それが母親によるはじめの「禁止」(初期禁止)である。
 「子」が親の禁止を理解し、またそれに続く諸要求に従うことができるようになるや、「子」にとって世界は新しい分節を形成する。それまで中心をなしていた「母–子」の親密かつ内閉的世界、すなわち「安心–不安」(母親の現前と不在)「愉楽–退屈」という基礎的分節の中心は、「禁止–許可」という新しい世界分節の中心性によってその基本形式を一変する。

 「禁止」の登場によって、「子」の世界はガラリと変わる。

 彼は世界に、「禁止ー許可」という新しい世界分節を見出すことになるのだ。

3.善悪の起源

 竹田によれば、ここにこそ人間的「善ー悪」の価値審級の源泉がある。

 つまり、「母」によって「許可」されているものが「善」として、そして「禁止」されているものが「悪」として分節されるのだ。

 「母」の言葉「よい」は、一切の肯定性を示す言葉を代表する。「よい」は、「快い」「おいしい」「うれしい」「たのしい」「きれい」「やさしい」「かわいい」「まちどおしい」「やわらかい」「明るい」「できる」を代行しうる。「わるい」は、その反対の意味をもつ語のほぼすべてを代行しうる。すなわち、「よい」と「わるい」は、世界のうちで生じる一切の情動様態をその肯定性と否定性において二分する。

 言われてみれば当たり前のようにも思えるが、ここには哲学的善悪論の新たな展開がある。

 「本体」論に支配されていた従来の哲学は、結局のところ、これまで「善悪」の「本体」を暗黙のうちに探求していたからだ。

 たとえばカントは、絶対の道徳法則なるものがあることを主張した。

 あるいはレヴィナスも、「他者」を絶対化し、「他者」を絶対的に「迎え入れる」ことこそが「善」そのものであると主張した。

 いずれも、「善」の「本体論」と言っていい。

 しかし竹田は、善悪の起源を「言語ゲーム」に求め、それを「善」の本質観取の一つの手がかりとするのだ。

4.ロマンの形成

 さて、「母ー子」の「言語ゲーム」は、「子」の成長にしたがって、より広い「言語ゲーム」へと開かれていくことになる。

 端的に言えば、「子」は「家政のゲーム」に参加していく、つまり、複数の人間同士の言語ゲームへと開かれていくのである。

 ここにはある種の「競合関係」が登場すると竹田は言う。

 初期禁止を転回点として「母–子」の要求–応答の言語ゲームは大きく展開し、やがて複数の主格、すなわち父親やきょうだいが参入する「家政のゲーム」となる。 〔中略〕「母–子」の内密的な親和的応答の関係は後退し、「子」は家政の掟のうちで位置を与えられ、家族の成員のうちではじめの競合関係を生きねばならない。

 こうして、「子」は「母ー子」の言語ゲームから「家政のゲーム」へ、そしてさらに広い「言語ゲーム」の世界へと開かれていくことになるのだが、この諸々の関係性のうちで、彼はさまざまな「自己ロマン」を育て上げていくことになる。

 つまり「子」は、この関係性の中で自己価値承認欲求を持ち、「このような自分でありたい」「あのような自分でありたい」というロマンを描くようになるのだ。

 このロマンには、大きく3つの範疇があると竹田は言う。

 自己ロマン化の三つの大きな範疇。「卓越性のロマン」「道徳と正義のロマン」「美的ロマン(挫折と屈折を養分とする、「道化」や「悲劇」のロマン化もある)。この岐路がいかに現われるかについは判明である。自己意識は本質的に自己価値承認の欲望であり、「自己ロマン」は他者の承認が集まる可能性の場所で結晶化する。すなわち自分のうちの他に抜きん出ている点の感度が、未来の自己像への憧憬を育てる。

 「すぐれた人間でありたい」「正しい人でありたい」「美しい人でありたい」。これらが、自己をロマン化する際の典型である。

 このような自己のロマン化もまた、私たちは徹頭徹尾「言語ゲーム」の中で育んでいくと竹田は言う。

 そしてその過程において、「優ー劣」「正ー邪」「美ー醜」といった世界分節もまた、私たちのうちにできあがっていくのだと。

(続く)


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