【解説】竹田青嗣『欲望論』(7)現代哲学は、結局ふたたび「独断論的形而上学 VS 相対主義」図式に舞い戻ってしまった
1.現代の相対主義
フッサールが終わらせたはずの形而上学的独断論と相対主義の対立は、弟子のハイデガーのカリスマ的な影響力によって、結局、その後の哲学において忘れ去られてしまうことになった。
その結果、いまもなお、ハイデガー的「本体論」と、それに寄生する「相対主義」との対立が、延々と続いてしまっているのだ。
以下では、まずその見取り図を。詳細は、また後で見ていくことにしたいと思う。
まずは、論理実証主義による形而上学的独断論批判を見ていこう。
これはいわゆる「観念論」批判という形を取る。ありていに言えば、形而上学的世界を「観念」的に作り上げる哲学に対する批判である。
むろん、この批判には妥当性がある。
しかし彼らは「観念論」の真の意義を見誤っていると竹田は言う。とりわけ、ニーチェやフッサール的観念論の意義を、まったく理解していない、と。
「観念論」の真の意義、それは、これまで見てきたように、私たちは何らかの「客観」を前提することはできず、一切は私(超越論的主観性)の確信であると考えるほかないということだ。
この主観的確信から始める哲学を「観念論」と呼ぶとするなら、形而上学的独断論と相対主義の対立を終わらせる考え方は、これまで見てきたようにこの「観念論」であるほかないのだ。
念のため言っておくと、これは素朴な「独我論」を意味しない。
世界には「私」(の観念)しか存在しないのではない。「客観」(本体)それ自体は、懐疑可能であるがゆえに前提できないが、私が何かを確信しているというそのことは疑うことができない。したがって、まずは一切を私の確信へと還元し、その上で、「真理」ではなく「共同の確信」(共通了解)を見出し合っていくこと。
これだけが、形而上学的独断論と相対主義の対立を終わらせる考え方であり、また最も鍛え抜かれた認識論の哲学なのである。
ムーアやエイヤーのいう「観念論」はせいぜいスピノザ、バークリー、シェリングの独断論的観念論をしか意味しない。論理実証主義者たちは、そもそも近代観念論の核心的意義、すなわち認識の問題を解明するには、客体を前提する思考から始発するわけにはいかないという根本原則の意義を捉え損ねている。しかも、繰り返すが彼らの観念論反駁の論法は、部分的にゴルギアスの帰謬論的反駁の応用である。
さて、その論理実証主義もまた、今日、さらに強力な相対主義の出現によって瀕死状態である(詳細はまた後に論じる)。
じっさい、ウィーン学団を中心とする論理実証主義者たちは、やがてそれが観念論−形而上学を反駁したと同じ論法によって、すなわち、ゴルギアス的帰謬論によって、相対主義者たち(クワイン、ストローソン、クリプキ、クーン、フアイヤアーベントなど)から論駁される。以後、この相対主義的認識批判主義が現代分析哲学の主流となる。
以上のような現代の相対主義は、しかし2つの重大な問題を抱えることになる。
前回も述べたように、相対主義は、その相対化の論理による限り、自らの論拠もまた相対化せざるをえない。
さらに悪いことに、相対主義は、「正しさ」や「確かさ」を相対化することで、ただ力が強い者だけが力を得る「力の論理」「パワーゲーム」を招来してしまうのだ。
相対主義=懐疑論は一切の現実論理を相対化しようとするが、原理上、現実世界が代表する「力の論理」に打ち勝つことはできない。現代思想における批判的相対主義者たちはこのことに無自覚なのである。
2.現代の形而上学
相対主義が勃興する一方で、現代における形而上学もまたかまびすしい。
しかも今日において、その寓喩−説話的世界理説は、難解化、韜晦化、謎言化という著しい特徴をもつ。
それは、せっかく哲学に興味を持った人たちを、ことごとく挫折させてしまうほどの難解さである。
しかし惑わされる必要はない。それらは結局のところ、一見いかにそう見えないとしても、現代における形而上学的独断論の変奏にすぎないのだ。
現代思想もまた多くの寓喩−説話的世界理説をもつ。ハイデガーの「存在」理説、ラカンの「現実界−想像界−象徴界」理説、ドゥルーズの差異の世界理説、レヴィナスの絶対他者の形而上学——。
これら現代の寓喩−説話的世界理説は、例外なく精緻、難解、膨大、そして謎言的秘教性を特徴とする(これは普遍的根拠づけの原理をもたない仏教諸理説の基本戦略でもあった)。この膨大、精緻、難解、秘教的理説からその真意を取り出すには、多大な時間と労力を必要とする。多大な時間と労力とによってようやく取り出された理説は、そのこと自体によって深遠な「真理」のように見えてくる。これもまた長く維持されてきた秘教的世界理説の伝統的戦略である。
ニーチェによる「本体論」の解体以降、「世界はこうなっている」と主張する「本体論」は、大手を振って歩けなくなっている。
しかし、それでもなお「本体論」を展開したい哲学者たちは、一見そうは見えないような仕方で、極めて難解複雑なレトリックをもって、独自の世界理説を述べ立てるのだ(その実例も後で詳述する)。
少し時代を上って、「新カント派」についても触れておこう。
ドイツ観念論の後の、19世紀末から20世紀初頭にかけての学派である。
新カント派について、竹田は次のように言う。
総じて新カント派では、価値の問題にかかわる諸観念を哲学的に追求するための、方法上の原理が見出されることはなかった。ここでは、汎神論的絶対者の媒介によって認識と美を統合するというドイツ観念論の道は廃棄されたが、その代わりに、価値の超越性、本体性の観念の理念化や、また愛の観念の聖化という道が目ざされた。
ヨーロッパを席巻していた科学主義に対抗して、新カント派の哲学者たちは人間的意味や価値の哲学を再興しようと考えた。
しかし彼らの方法は、結局のところ、ある何らかの超越的価値を独断的に措定するものでしかなかったのだ。
たとえばヴィンデルバントは、「価値それ自体」という価値の「本体論」を探究した。
ヴィンデルバントは、要請としての神というカントのアイデアを受けて、要請としての「価値自体」という考えを提示する。それは一方で、汎神論へと先祖返りしたドイツ観念論の「絶対者」の形而上学を相対化するという批判的狙いをもったが、もう一方で、「価値」の本体的観念を温存しようとする試みでもあった。
現象学の影響を受けたシェーラーは、しかし現象学的還元の意義をまったく受け取らず、そればかりかきわめて恣意的な仕方で「還元」を用いて超越的な価値論を展開した。
シェーラーで用いられる「還元」の概念は、客観世界の想定の現象学的意識への還元を意味せず、単に、世俗的世界に対する対抗としての遮断と否定を意味する。現実性の基盤としての生活世界、世俗世界、自然世界に対する強い嫌厭と否認は、その背後に秘匿されているはずの「超越的な本質世界」の予見を導く。
新カント派について、竹田は次のように結論づける。
19世紀における「価値」哲学の考察は、ほとんどの場合(シェーラーが象徴するように)、日常のさまざまな効用的価値から、社会的な現実価値(経済的・権力的価値)へ、そして審美的価値、道徳的(倫理的)価値、さらに、聖なる価値へと上向してゆく、という定型をとる。
しかしそれは、結局のところ恣意的な価値の「本体論」と言うしかないものだったのだ。
3.現代の実在論
さて、しかし今日、以上見てきたような形而上学的独断論と相対主義の対立の問題圏を抜け出るべく、ある哲学的試みが現れ始めている。
その1つの代表が、メイヤスーの思弁的実在論である。
彼は、単なる独断論とは違った仕方で、すなわちきわめて「論理的」な仕方で、「本体」を思弁的に論証しようとする。
その要諦は次のようだ。
メイヤスーの論理の要点はこうである。「死後の世界がどうあるか」という問いを極限的な仕方で問うと、いくつかの決して確証されえない独断論的推論が現われる。これらの独断論的推論を打ち破るためには、われわれは世界の絶対的な「非理由律」を、すなわち世界の存在が偶然であるという絶対的な必然性を前提しなければならない——。
世界の偶然性という必然性という絶対的実在。これがメイヤスーの結論だ。
これに対して竹田は次のように述べる。
しかしこのメイヤスーの思弁的弁証は、万人にとって妥当性をもつだろうか。われわれはまずこういわねばならない。世界の存在の可能性、偶然性、必然性についての思弁的論証から、世界の存在の実体性(それがどのようなものとして存在するのか)について何か確実なことを言うことは、原理的にできない、と。
彼の思弁論は独自のものであるとはいえ、本質的に、相関主義(あるいはむしろ相対主義)に対抗する反駁的帰謬論という性格を出てはいない。
メイヤスーは、相対主義に抗して確実な「実在」を論証しようとするのだが、結局のところ、その論証の仕方もまた、相対主義と同じ帰謬法に頼るほかなくなっているのだ。
私なりに言えば、「世界は偶然である」という帰謬法による相対主義を、「世界は偶然である、ということは絶対である」と言い換えているにすぎない。文字通り、思弁を弄しているにすぎないと言える。
もう1つ、近年議論がかまびすしい「物理学的実在論」について。
物理学的原理主義者、すなわち心的な現象は完全に物理状態、脳の分子レベルの構造に還元可能であるという消去主義的実存論者たち(ポール・チャーチランド、パトリシア・チャーチランド、ダニエル・デネットなど)にならんで、完全な還元は困難だがいわばファジーな還元ならば可能であると考える論者も登場している。哲学的ゾンビ説で知られるデイヴィッド・チャーマーズの主要な主張。意識、心の完全な還元(物理的構造への)は不可能だが、意識作用を差異についての情報と解釈することによって、還元によらない実在論的説明は可能である。
心や意識は脳の分子レベルの物質に還元可能であるとするのが、物理学的実在論である。
しかしこれもまた、あの形而上学的独断論の21世紀的再演と言わねばならない。
ここでは再び、「本体」としての「実在」が想定されているのだ。
認知科学や心脳一元論などの現代実在論は、決してこの古典的問題を解決できない。現代の物理学主義的実在論ができるのは、専門的な知識をいっそう膨大に援用して、この問題の本質を一般の人間にとっていっそう深遠な問題に見せかけわけの分からないものにすること、複雑で高度なテクノロジーのおかげでそのうち一切のことがらが物理の秩序に還元され、心を創り出すことができるのかもしれない、という漠然とした表象(イメージ)を人々に与えることだけである。
物理学的実在論が問うているのは、心身一元論か二元論かという、あの古典的問題の現代版だ。
しかしそれは、そもそも問いの立て方を間違えた擬似問題なのだ。
心の正体としての「物質」などという「本体」に、私たちは決して達することができない。それゆえそのような観念は、早々に解体してしまわねばならない。
竹田は言う。
哲学にとって重要なことは、この心身二元論や一元論の難問を新しい装いで延々と反復することではなく、ことがらの本質を解明してこれに終焉をもたらし、哲学と科学が人間と社会の課うるその可能性と限界をはっきりと示すこと、さらに、いかにして哲学が正義と不正義、善や悪といったものの根拠の問いを、普遍的な仕方で探求しうるかの原理を究明することである。
以上のように、現代もまた、「形而上学的独断論 VS 相対主義」の構図から一歩も抜け出すことができずにいる。
だからこそ、竹田はこう主張するのだ。
まずは一切の「本体論」を解体せよ。そしてフッサール現象学の意義を再発見せよ。その上で、現象学をより進化させよ、と。
(続く)