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死にかけてから1年で変化したこと | Jul.10

回りくどい文章は、読むのもしんどい。
午前中、とある小説を読んでいて、そんなことを思った。

状況を読み手に文字で伝えるのは難しい。音もなければ匂いもなく、動きも見えない。すべては文字をもとに、読み手の頭の中で再現してもらわなければならない。
描写が細かくなるのは、書き手のサービス精神か、伝わらなかったらどうしようという恐怖心なのか。いずれの場合でも文章の量は増える。

村上春樹がデビューした後のこと、自分も軽妙洒脱で気の利いた比喩を、と目論む人が増えた。
地の文に比喩が溢れかえり、さらに天から比喩の雨が降って来るようなほどだった。
僕は勝手にムラカミハルキ病と呼んで、比喩の洪水を楽しんでいたけれど、小説を読んでるのか、比喩を読んでるのか、わからなくなったこともあった。

文章はシンプルに限るのだと思う。
人間の脳は思ってる以上に優秀で、足りない情報は的確に補完してくれる。
読みやすい(物語に没入しやすい)作家の小説を分析的に読んでみると、意外なほど書き込んでいないことに気づく。

もちろん書き込むべきところは詳細に描写がなされているのだが、全体が同じ密度かというと、そうではない。ちゃんとコントラストがついている。
これは作家が最初から「ここはこの程度で足りるよね」と考えているわけじゃないんだろう。
中には初稿の段階でそこまでできてしまう人もいるのだろうけど、大抵は推敲の段階や、最終的にはゲラの段階でバッサリ切り落としたり、書き加えたりして、我々読者の手に届けられる仕様に仕上げられているはずだ。

心臓がおかしくなって入院をしたのは、去年の今日のことだ。
入院してから3日後の12日には心停止を起こし、医者や看護師の手を借りるまでもなく、勝手に蘇生したものの、そのまま集中治療室送りになった。

あれこれと処置を施し、機械も埋め込まれ、一般病棟に戻った後、自分が死の一歩手前まで近づいたことで、何かが変わるのかなと、ぼんやり考えた。
死にかけた人は価値観が変わるという話はよく聞く。
さすがに「悟りを開くかも」とは思わなかったけれど、何か変化が出るのかと思ったのだ。

結果から言うと、直後には何も変わらなかった。
先鋭的で攻撃的だった性格に拍車がかかった気すらした。
死ぬことを思えば、誰に嫌われようが構うことはない。
気を使って言いたいことを言わずにいる必要など、どこにもないではないかと、遠慮が急激に減ったのだ。

1年が経ち、健常者ではないことに慣れた今になってようやく、ささやかな変化があったことを自覚しつつある。
余計なことは要らない。最小限で大抵のことは足りる。なければないで、どうにかするし、どうにかなる。

好き勝手に書いている文章も、以前と比べたら少しスッキリした。
死にかけてこの程度の変化では割りに合わない気もするが、僕に訪れたのはこのくらいのものだった。

ちなみに、体重計の数字は一向に変化する気配がない。
少しは変化があっても良さそうなものだが。

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