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読書記録『禅とジブリ』鈴木敏夫

スタジオジブリのプロデューサー、鈴木敏夫氏が3人の禅宗の和尚・老師と対談する本作。信仰心はかけらもないが、感じることの多い1冊だった。

親戚に禅寺を営んでいる家があるもので、信心はなくても禅宗は身近だった。
座禅も、瞑想だとかマインドフルネスとか言われるとインチキ臭さやカルトっぽさを感じてしまうけれど、寺を営んでいるのが父の従妹の嫁ぎ先であればそんなこともない。
「人生に迷ったとき」と言うと大げさだが、僕は割と頻繁にくだんの寺に遊びに行き、遊びに行ったついでに座禅にも加わってきた。

別に悟りを得ようなんて気持ちはないし、騒々しいところ、人の多いところよりも、静かに本を読めるところが欲しくて遊びに行っていたようなものだ。
一宿一飯の恩義ではないけれど、居候させてもらうお礼に寺男のように掃除等々の手伝いをして、座禅や読経にも加わり、あとは読書三昧であった(そういえば「三昧」も禅の言葉だ)。
そんなわけで身近にあった禅ではあるが、生活に密着してるものなんだなあという程度で、理解には程遠い。
だが禅宗の考え方は面白くもあり、決して嫌いな雰囲気ではなかったので、これまでも折に触れて鈴木大拙や河口慧海等々の禅僧の著作は読んできた。ちっともわからなかったけれど、面白くはあった。

本作は、多くの人に知られたジブリと、あるのは知っていてもなんだかよくわからない禅の接触である。
取り合わせとしては奇妙にも見えるが、読んでみるとパッと見えてくるものが多かった(対談で語られていることの外に)。

『禅とジブリ』でいちばん強く印象に残ったのは「真似る」ということと「薫習」という言葉。
物事を身につけるのによく言われる「守・破・離」という言葉。
まずは先達の教え、手法を徹底して遵守する。その次の段階で先達の先例を破り、最後は先達から離れて、自分で道を拓く。
一言で言えば「真似る→変えてみる→新しく作る」という展開だ。

真似ることについて語っている下りでオリジナリティに関することが出てくる。何にも影響されていない人はいない。何にも影響されていない完全に独立したオリジナルなものなどない。これだけでも読む価値はあった。
だから「真似ろ」と。

「薫習」という禅語は、手取り足取り教わるのではなく、師や先達を観察して学びとることなのだそうだ。
禅宗では細かいことをいちいち教えないらしい。薫りというと嗅覚のようだけれど、むしろ言葉ではない佇まいや趣、雰囲気といったことを総合して学び取れということなんだろう。これもまた「まずは真似る」ということにつながる。

小説を読んだり、ドラマを見ていると「あ、これはあれの焼き直しだな」とか「この話の構造はあれと同じだな」と嗅ぎ取ってしまうことがある。
自分で物語を書こうとした時にも「あれと同じ」臭を嗅ぎ取ってしまって、「だめだ」と放り出すことも少なくない。
でも同じ人間が作るものなのだから、人間が想像する構造が似通っているのは当然で、差異は根本ではなく、ディテールに現れるのだと思う。
だから臆せずまずは二番煎じをやれば、そこで学ぶこともあるのだと感じたのだった。

香りの一番出汁、味の二番出汁なんて言うし、二番煎じにも良いことはある。


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