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コスパ重視の社会であえて伝統工芸品や高級品を用いる意味 ~ひとそれぞれを超えられるか~

 高校生のとき、食器のことで同級生のM君と喧嘩をした。それは、僕が「漆塗りのお椀でお汁を飲んだほうが、美味しいように感じる」という考え(以下「伝統工芸派」という。)だったのに対し、M君は「器など使えれば何でもよい。100均のプラスチックのお椀で十分。わざわざ漆塗りの器を使うなどコスパが悪く無意味」という考え(以下「コスパ派」という。)であった。結局、どちらも決定的な論理を構築することはできず、平行線のまま喧嘩別れに終わった。

 この論点は、未だに自分の中で結論が出ていない。お椀に限らず、単なる「機能」という点を超えてあえて伝統工芸品、または工業製品であっても、通常よりも高級なもの(以下「伝統工芸品等」という。)を用いる意味はどこにあるのだろうか。やはりこれは単なる好みにすぎず、「人それぞれ」のものとして、悪しき相対主義に包括されうる問題なのか。
 機能面・思想面の両面から考察してみたい。

機能面で優れている?

 伝統工芸派が伝統工芸品等を用いることを正当化する理由として、「実は機能面で安い工業品よりも優れている」というものがある。例えば、お椀でいうと、木地で漆塗りであればプラスチック製よりも軽いことがある。

 しかしこれも、一般化しづらい論理である。伝統工芸品等の機能性が安い工業品より優れているのは一部の面に過ぎない。例えばお椀であれば、同じ漆塗りであったとしても木地よりはメラミン樹脂製のほうが強い。そして、総プラスチックであれば、より衝撃に強くなるし、電子レンジや食洗機でも使うことができる。お椀でなくても、やはり伝統工芸品等は安い工業品よりも扱いに気をつかうものが多いのは一般的な感覚である。

 また、機能面から漆塗りのお椀を使う人が、例えばFRPやカーボン等の最新技術を駆使した軽くて強いお椀が出た場合、そちらに乗り換えるとはあまり想像できない。

思想面はどうか

 この手の問題でよく伝統工芸派が口にするのは、「よい食器を使うことに実用的な意味はないかもしれないが、なんとなく心が豊かになる。」というものがある。なんとなく共感できるのもではある。高級なものに囲まれることにより、なんとなく自分の価値が高まる気がしたり、誇らしい気持ちになるのは普遍性があるはずだ。贅沢品の最も原始的な存在意義は間違いなくこの点にある

 ただ、この話でコスパ派が納得するかといえば、間違いなくNOである。贅沢品のもたらす精神的な豊かさに価値を感じない人間からすれば、「伝統工芸品等で心が豊かになる」などと言っている人間は薄ら寒い連中に過ぎない。むしろ、悪く解釈すると「あなた達は心が貧しいからプラスチック製のお椀で満足できるのだ」というマウントに発展する危うさを持っている。伝統工芸品等を好む論拠を「精神的な豊かさ」のみに置くのは、危険がある。

 思想面でもう一つ考えられるのは、ストーリーである。商品やサービスが溢れ、均一化が進む現代において、ものを売る戦略として「ストーリー」が重視され始めている。そのような意味では、伝統工芸品等はストーリーがみえやすい

何年も修行を重ねた職人が、一つ一つ手作業で丹念に仕上げた「本物の」お椀

などと、購入者が満たされそうなストーリーがすぐに想像できる。

 しかし、これも「みえやすいかどうか」という次元の話でしかない。100均のお椀であっても、製造会社の社員は日々低コストでより良い品質のものを作れるよう汗水を流しているであろうし、うまくできた際に達成感を得ている姿もまた、容易に想像できる。ストーリーはあくまでストーリーであり。そのものの有する本質ではない

「コスパ」を超えて

 ではやはり、現代社会において伝統工芸品等を用いる意味は、嗜好の問題に過ぎないのか。それでも私は違うと言いたい。現代だからこそ、思想面において、伝統工芸品等をつかう意義が一層深まっていると主張したい。

 今の時代、何かと「コスパ」である。コスパを重視するのであれば、伝統工芸品等などは不要である。そのものに求められる機能を果たせれば十分なのであり、その価値に見合った以上のコストは「無駄」である。

 しかし、私達は本当にそれでいいのだろうか?人生を営む上で必要なコストを最小限に抑え、浮いたコストを他に投資する。コスパ派の生き方は企業経営そのものであり、ひいては資本主義精神の体現ともいえる。ただ、企業経営を超えて、私達の生き方そのものまでに資本主義が入り込むことには不安がある。一度そうしてしまうと、いつかは自身の実存までもが、「価値を生み出せるか否か」という観点で判断されてしまうのではないか

 現代はとにかく「コスパ」の時代である。モノやサービスにとどまらず、結婚や育児までもがコスパで判断されるようになってきた。私達の実存にまで資本主義が浸透し始めている。

 そんな時代だからこそ、あえて必要とされる以上の金銭を投入し、その無駄を大切にしたくはないか。漆塗りの椀で味噌汁を飲んでみたり、ウェッジウッドやノリタケのカップで紅茶を飲んでみたり、それらをマルニの棚に飾ってみたり、そういった実用性やコストを度外視した「無意味な」営みにより、現代社会の流れに反逆するのである。

 伝統工芸派に立つか、コスパ派に立つかは、いわば「資本主義を自身の実存の髄にまで取り込むか否か」という問いだ。

 しかし、このような結論に至って驚く。ゾンバルトはその著書『恋愛と贅沢と資本主義』において、貴族の贅沢が資本主義を生み出したとしている。しかし、現代社会における贅沢は、場合によってはアンチ資本主義の様相を示す可能性があるのである。
 
(以上)

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