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繭の声を聴きたい

雨粒がガラス窓で潔く弾け、次の瞬間には残った水分が結集してつうっと下へ下へと滴り落ちていくそのさまは、まるで熟達した生存のようだ。
にぶく光るそんな光景を背に、彼女は私と向き合って微笑んでいた。穏やかだけではない、きちんと見すえるふうな一抹の緊迫を伴って。

「こういったことをお仕事でされていたこともあると伺っておりますけれど、その時にいくらか訓練も積まれたといったことは?」

私はなけなしの控えめさをこめて笑いながら、わずかに姿勢を正した。

「セミナーや講習を受けた程度です。二十年前は今ほど整備が進んでいなかったので定期的にというのはなかなか難しかったですし、あとはやはり、仕事を優先しなければなりませんでしたから……半休を取って受講することもありましたが、それを続けると本末転倒になってしまうなと」
「では実戦で鍛えてらしたのですね」

私の口数の多さを、すんなりとまとめてくれる。
今がまさに実戦だよなあ、と内心ではくだけた調子の私が、表面では礼儀ただしく頷いてみせる。

「中途半端でお恥ずかしい限りです」

いえ、と彼女は首を傾げて再び笑んだ。同時に、テーブルに置いたメモにボールペンで何やら書きこみ、素早くその動きを止めて、そうしてからまた私を見て、口を開いた。
その所作のすべてが、彼女の働きを如実にあらわしているように、私には思えた。

「実際に意識してやったことのある人と、そうでなく、志はあっても経験のまったく無い方とでは、やはり違うものですよ。何でもそうでしょう。良い悪いはともかく」
「確かに、そうですね」
「既に実戦なさっておいでなら、基本もご存知でしょうし」

基本。口の中だけで、私はその一語をなぞる。
二十年まえの私が、さんざんに苦心したこと。何度も何度も、上司から注意を受けたこと。

「相手の感情にのみこまれないこと。線を引くこと。持ち帰らないこと。……でしょうか」
「ええ。あと守秘義務です」

つい苦笑してしまった。それが第一義ではないか。当たり前のことすぎて忘れてしまう、なんて言い訳にすらならない。
しかし彼女は咎めることなく、ちょっとだけまたメモを取り、手をとめて、私と目をあわせた。

「原則はお分かりのようですね。でしたら、ちょっと実戦してみませんか」
「今ですか?」

不意打ちにおどろいて聞き返すと、彼女は、にっこりとうなずく。
初対面から、だいたい十五分。雰囲気のやわらぎを感じたのは、私の願望に過ぎなかっただろうか。

「何か問題が?緊張します?」

緊張なんてするに決まっているけどやってみたいから来たわけだし、でも思いがけず話の進みが早い。私はためらいを表すことにはためらわず、ただ率直に不安を告げた。

「私が二十年前に関わっていたのは、子どもと、その保護者の方々です。あとは二十代から三十代、最高で四十代の……お年寄りは、ほぼ経験がありません。お電話でというのも、あまり」
「でも、このボランティアの主旨は分かっておいででしたよね」

ひとり暮らしのご老人に、定期的に電話をする。生存と、生活の安否確認。それにまつわるちょっとした会話。
雨粒が窓ガラスを無音でたたく。点がちらばって線になり、まっすぐに伝って消えていく。
私ははっきりと答えた。はい、と。

「子どももお年寄りも同じ人間ですしね。日本語が通じれば何とかなると思います」

彼女は黙ってまた笑い、ファイルを取り寄せてぱらぱらとめくり出した。その中から一部の資料を取り出し、私に手渡す。私がそこに書かれた情報に視線を落とそうとした時、左ななめの位置に、電話が置かれた。
なつかしい、まるいフォルム。
ダイヤルはさすがにタッチ式だが、スマホでの通話に慣れていると、電話機そのものがもはやもの珍しい。

「試験じゃないのよ。だから合格も不合格もありません。難しいと感じることはあるかもしれませんね。私だって今でもあります。でも」

彼女はそこで、はじめて、いっさいの笑みをまじえない表情に切りかえた。
まっすぐに、なにかを見つめている。

「私たちのすべきことは、そのひとが生きているかどうか、安全かどうか、それを知ることだけです。それ以上をやろうとすると」
「のみこまれる」

つい遮るかたちでこぼした私のことばに、しかし彼女は、はっきりとしたまばたきで応じた。

「お年寄りですから、訃報にふれることもあります」
「はい」
「常に落ち着いて、でも、機械的になりすぎないように」
「はい」
「他に何かご質問は?」
「こちらの団体名は名乗っても個人名は出さずにいるべきですか?」
「そうです。ご指名いただいてもご対応できませんし、責任も取れませんから、個人情報は伝えないで」
「わかりました」
「では、始めてみてください」
「はい」

砂色の受話器を、左手で持ち上げる。右手で電話番号を押す。呼び出し音が鳴り出した。メモを引き寄せ、ペンを持って、身体の力を抜き、そのときを待つ。
カチャ、と音がした。

『もしもし』

たいていのことは、予想なんて役に立たない。
短い声に響く若々しさと、一音のどこにもよどみのない発語。
それではじまった数分のあいだ、雨ふりの世界は遠く、そして近く、そのひとと私の中間でずっと気ままに揺れ動いていた。


ボランティア活動をしよう。
そう思い立ったのは九月なかばごろ。休養期間にあっさりと飽き、ともすればすぐにでも就職サイトをうろつきかねない、そんな時期のことだった。
休養は別に横になっているだけじゃない。もちろん必要ならそうしていても良い。

ただ、休養が苦手な人間もいる。私である。

しかし今年はそれでなかなか手痛い思いをした、その事実をどうしても認めねばならないし、なら求職は得策ではない。現実的にものごとを進める訓練をこそ、休養期間に積んでおきたい。
加えて、出不精なところはちょっと頑張りたい。
定期的にすべきことがあって、でも義務的でなく意志的で、外界との関わりを絶やさず適度に外出をする。
それらをボランティア活動でなら、ほぼ満たせそうな気がした。

二十年前、大学時代にはボランティア活動を継続的に行っていた。
社会人になるとそういった時間は取りづらくなる。
そう聞いていた通りの現実だったが、最終的に私はボランティアから正職員として採用されるに至った。


「どういったボランティア活動をなど、具体的なご希望やイメージは?」
半月ほど前、市のボランティアセンターに問い合わせた際、職員の方にそう聞かれた。この情勢でボランティア募集も激減しているのですが、と前置きをした上でのことだった。
私はちょっと考えてから、
「傾聴……ですとか」
と、何故か遠慮がちに答えていた。
二十年前、ボランティアを経てついた仕事。
それは不登校や引きこもりの人々を支援する団体職員だったからだ。

そのころ「傾聴」という難しい単語は頭にあるだけで、さまざまな方の「相談を聞くこと」が実務の一環だったのだけれど、思い起こせば、「耳を傾ける」ことをしなければ成立しない仕事であったことは確実だ。

そこでの仕事は、たった三年で退職することになった。
私の兄が引きこもりはじめたのは、そのちょっと前のことだ。


私には引きこもりの兄がいる。
そう説明するとき、極めてざっくりと「二十年選手です」と付け加えていたものだが、改めて兄の年齢から逆算すると今年でちょうど二十年目であった。
お兄ちゃん、ごめん。数年ぐらいサバよんでた。
と気軽に言えるような仲でもない。
私の家族は家族としてほぼ機能していないのだ。だからこそ兄は二十年、引きこもっていられたと言える。

父も、生前の母も、引きこもった兄に直接ふれようとはまったくしなかった。
どうして、急に仕事をやめてしまったのか。
悩みがあるのか。困っているのか。
何か助けが必要なのか。
そういうことを兄に聞ける人たちではなかった。
私がたまたまそういった仕事に就いていたこともあって、両親から相談を受けたことはある。
持っている知識や情報はすべて提供したが、両親はそのどれをも嫌がった。
「あの子は病気じゃない。今はお休みしているだけ」
と言いながら、次の日には「かわいそうでしかたがない」と私にこぼしてくる。
私は私で特に態度を変えず、ずかずかと兄の部屋に入って「このゲーム借りていい?」と話しかける図々しさを保っていた。
私は兄の保護者ではない。兄妹の関係は対等だ。そういう意識があった。
だからか、兄も私とは会話をしていた。ちょっとしたきっかけでキレてしまうことも多かったが、それは元来の彼の性質である。引きこもりだからというわけではない。

しかし、多くの要因が重なって兄はどんどん悪化し、ついには私が家を出なければならなくなった。
兄や父と物理的な距離をとる必要があった。
その直前まで私は兄と話をしようともがいていた。まさに「のまれていた」のだと思う。


ボランティア活動をしているとか、不登校支援団体で働いていたとか、そういったことをまれに「えらいね、すごいね」と言われもすれば、「そんなことより自分の家族をどうにかすべき」と説かれもする。
どちらもまったく筋ちがいだ。
私は慈善ないし善行の心もちでボランティア活動や仕事をしたことは一度もない。
不登校児童を賞賛することもないし、引きこもりを社会不適合者だと捉えたこともない。
では何故そうしたところで仕事をしていたのかというと、「学びや育ちの選択肢が増えるのは良いことだな」と思ったから。それだけ。

その延長線上で、兄の引きこもりについては、今はこう考えている。
保護者に経済状態を支える覚悟があるのなら、一生、引きこもっていても良いのではないか。
社会に出ることが彼にとっては尋常でない苦痛で、家にいることでそれがやわらぐなら、そうして何が悪いのだろう。

親が死んだらどうするのか、という問題については、当然、親はそれなりの資金を遺すべきである。
そうしたくないのならば、動ける内にひきずってでも当人をつれて福祉施設などに赴き、適切な助言なり支援を受ける必要がある。
私の家の場合は、父が「遺産と呼べるものはすべて兄に」という意向なので、経済面は確保されていると一応は認識する。
生活上の困難な場面に関しては私が引き継ぐしかないが、それも私の決断である。兄が拒むのならば理由を聞きながら対応するしかない。
そして結局は私の手に余り、兄を見捨てることになったとしても、「仕事したり遊んだりボランティアしてる暇あったら家族をどうにかすべきだった」なんて、誰にも責められる筋じゃない。

兄は兄の人生を生きているのに、私が私の人生を生きてはいけないはずがない。

ということが分かるまで、だいたい十九年かかった。
今年になって私が久しぶりに外で働きだしたのにも、ひとつには、そういう経緯があったのだ。


引きこもっていても、心が幸福なら、それで良い。
幸福といってもそんなに大げさなことじゃない。
ごはんがおいしいとか、ありがとうを言えるとか、笑えるときがあるとか、そういうことだ。
あとは家の中で役割を持ち、できる範囲でこなすこと。
お米をとぐ、皿を洗う、戸締まりをする。
家族と食事をし、いただきますとごちそうさまを言う。
今日は無理だなと思ったら、それを伝える。
そういう最低限のことができれば、いざという時、外へ出て行く力を養えるかもしれない。
何もしないでぜんぶ親が請け負い、話しかけもしないよりは幾分もましだろう。

少なくとも私が家を出た時点では、兄は幸福でも健康でもなかった。
引きこもって三年目。新聞を騒がせる一歩てまえだったから、私は避難するしかなかったのだ。
父からは毎日のように「兄をどうしたら良いか」という電話がかかってきた。
最初はそれまで何度となく伝えたことを辛抱づよく繰り返し、あれこれ説得もしたが、どうしても兄を庇護したがる父を見て、問題の本質がどこにあるのかをうっすら察した。
諦めなければ。そう自分に言い聞かせながら、気づいた。
私はずっと、兄は愛されていて良いなあと妬んでさえいたのだけれど、その愛情は兄にまったく伝わっていないのだと。
私たちは三人とも、互いに関わりを持とうとすると、ほんとうにくたくたに疲れてしまうのだと。
何故なら、誰ひとり、耳を傾けないから。


聴くべきひとが、兄に、何も聴かなかった。
私にも相談はしても、聴きいれなかった。
「どうしよう、わからない、困っている、たすけて」と訴える術を知っていても、放棄した。
「聴く」ことには、それなりの力が要るから。
聴かずにいておとなしく引きこもっていてくれるならそれで良いんだ。聴いて機嫌を損ねて面倒ごとにしたくない。父はきっぱり断言して、兄と話をしたがらない。
それでもしばらくすると「苦しい気持ちを聴いてくれ」と私に泣きつく周期がめぐってくる。
もう私の役目じゃない。そう思ったのが昨年だ。
兄の話なら、兄から直接、聴きたい。
父の代弁は不要だ。ただの愚痴なら聴き飽きた。
私の話はいつ聴いてくれるの。もう嫌だ。もうやめたい。もう、やめよう。
やめる。やめた。
やっとのことで決められたのだ。


恐らく多くの人間は「聴いてほしいこと」「知ってほしいこと」を持っているだろう。私はそうだ。でなければこんなに長々と文章を書いたりしない。
その欲求に応じてほしいなら、それなりの関係性を構築していなければ、その後の距離感がおかしくなる。
さまざまな経験を経て、私は「真剣に聴いてもらわなければならない」と感じたことは、お金を出してプロに頼ることにしている。
だからカウンセリングにも定期的に通っている。今は「心身の休養期間」と定めたので、更に集中してスケジュールを組んでもらっている。

一方で、傾聴ボランティアを通し、「聴く力」を育みたいと思っている。
最初に「どんなボランティアをしたいか」と尋ねられたとき、「傾聴ボランティア」ととっさに答えたのは、「そういう仕事もしてたから活かせるかもなあ」という軽い気持ちだったが、よくよく考えると逆だった。
傾聴力。それは自分に不足している部分かもしれない。
特に兄が引きこもりになって以降、話を聴いてもらうことは格段に増えた。そのぶんだけ友人からの相談を聴くことも、何故か多くなった。
だが、私に深刻な相談をした友人たちは、今、そのほとんどが友人ではない。
それでほっとしている自分がいるのも、また事実である。
傾聴力がもっと高ければ友人でいてくれたかな、という安易な話でもない。
このあたりはまだうまく言語化できないが、傾聴ボランティアが何かしらの糸口になるような予感がある。
こういう直感は嘘をつかない。


先日、傾聴ボランティアの説明をしてくださった女性は、その団体の代表の方。後で知ったことだが、八十歳だという。
とてもそうとは思えない。が、それぐらい時間をかけなければ達し得ない何かなのだなと納得もする。

来週、そのボランティア団体の定例会がある。
所属している十名ほどの方々とお会いすることになるが、今のところ、全員が七十代。
四十三歳の私が信頼を得られるものか、心配があるとすればそこだ。

あの後で三件ほどお電話させて頂き、「ボランティアの聴き手として支障なし」と判断されたものの、恐らく「初心者でも大丈夫そう」とあちらが想定した方々を選んでくださったのだろう。
今後、本格的にボランティア活動を始めたら、いつも代表者の方とご一緒というわけにはいかないだろうし、電話をかける相手は選ぶことができないし、二人体制での活動だからもう一人のボランティアさんとの関係も重要になってくる。

それでもメインは「ひとり暮らしのお年寄りにお電話をして、お話を聴く」ことだ。
「雨が降っていますが、お困りではありませんか」と尋ね、その答えに「耳を傾ける」ことだ。
そこからはずれないよう心がけて続けていけば、私はなかなか良い聴き手になれるかもしれない。

失敗のほうが多いけれど聴く努力を尽くした下積みがあるから。
そして今なお聴きたいと願っているから。

兄の話も、友人のことばも、これから出会うひとたちの感情も、のまれず、落ち着いて、聴きたい。

繰り返すが、うまくは言えなくても、直感は正直だ。
私は良い聴き手にも、そして、ひいては良い書き手にも、きっとなれるかもしれない。



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