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それぞれのキッチン

引っ越しの後かたづけといったら、どんな順番が良いんだろう。
そんな疑問を持ったまま、とりあえず台所に取りかかった。

先週から住みはじめたアパートは玄関を入るとすぐに台所という間どり。
だから今後、荷物の配達や勧誘などがあってドアを開けたらすぐに台所がまる見えになる。
それに私が外出するときも台所をまっすぐ通っていかなければならない。

そして今、その玄関のあたりにカラの段ボール箱が山と積まれている。
いくつかの段ボールは収納のためにとっておくとしても、ほとんどは廃棄になる。

玄関がさっぱりするときは台所がきちんとなっている日でもあるだろう。
そんな目測を立てて、まず台所から攻略していくことにした。



これまでのひとり暮らししてきた物件の中で、恐らく今回の台所がいちばん広いのではないかと思う。
まだ片づけが完了していないので断言しきれないが、少なくともここで寝ることはできそうだ。

私には台所で眠る性癖はない。
ただ、さっき改めて台所を眺めて、吉本ばななの『キッチン』を思い出したのだ。



はじめて『キッチン』を読んだのは高校一年の春だった。

私の高校は自由主義を謳っていたこともあり、教科書を使わない授業形式を採用していた。
『キッチン』は国語の授業でさいしょに取り上げられたテキストだった。
文庫本ではなく、ほぼ全文を教師がコピーしたものが配布されたと記憶している(著作権関連について今となっては申し訳なく思う)。

面白かったから、あとになって自分で文庫を買った。
それも実家においたきりだったので、数年前になんとなく買いなおして読みかえした。
その文庫がつい数日前、本を整理していたら段ボールの中から出てきて、ほっとしたばかりだった。



物語の冒頭、唯一の見よりである祖母を亡くした主人公が、しばらく台所で寝ていたというエピソードがある。
いきなり「私は台所が好きだ」ではじまるくらいだから、このヒロインにとって台所が重要であることはわかる。
けれど、彼女は祖母の死について「びっくりした」と語ってはいても、あまり悲しいとか寂しいということは言っていない。ただ、祖母の死のあとは台所で寝ていた、とだけある。
もうちょっとストーリーがすすむと彼女の心理描写もより深く掘り下げられてくるが、少なくとも最初の数ページだけを読むと「祖母の死にびっくりして台所で寝る女子大生」という何だかちょっと風変わりなひとでしかない。

といっても、私は当初、彼女の行動や嗜好がそれほど特殊だとは思わなかった。



国語の授業中、テキストを区切りの良いところまで終えてから、教師が生徒たちに尋ねた。

「台所でも何でもいいけど、この主人公みたいにものや空間に愛情をもっている人っている?」

手をあげたのは私だけだった。
あれ、と思う間もなく、まわりから集中砲火を浴びることになってしまった。

「何を愛してるの?」
「えーと、ワープロとか」
「なんで?」
「文章を書くのが好きだから」
「じゃあ紙とかボールペンも?」
「うん、好き。愛着もある」
「作家になりたいとかなの?」
「まあそんな感じ」
「相棒的な存在?」
「近いね」
「でもそれってあなたの実力と関係ないよね?あなたが作家になれても、それはワープロのおかげではないでしょ?ただの道具に過ぎないのに、わざわざ愛するの?」

なんか困ったなあ、と途方に暮れそうになった。
まわりがものにまったく愛着を持たないことのほうが、私にとってはちょっと意外だったのだ。
だから聞いてみた。

「みんなはそういうのない?たとえば、お気に入りの服とか、ものじゃなくても何か特別に好きな空間とか、ひとつぐらいありそうな気がするんだけど、本当にないの?」

三十七人のクラスメイト全員が、ない、と断言したので、内心ものすごく驚いた。

「そりゃ、トイレが落ち着くとか、お風呂でほっとするとか、家に帰ったらとりあえず冷蔵庫を開けるとか、あるけど、祖母が死んでそのかわりにするほどのレベルじゃない」

ああ、そういうことなのかと納得した。
要するに物質よりも家族関係のほうが優先順位が高いので、身内を失ったときによりどころになるものなんてない、ということなのかと。

私は当時、すでに家族関係がうまくまわっていなかった。それでは通じないのも道理だ。

あとになって知ったことだけれど、他のクラスでも「ものを愛しているひと」というのはひとりもいなかったらしい。
それで教師が私の名前を出したものだから、休み時間によそのクラスから「ものを愛してるやつってあんた?」とわざわざ訪ねてきて、いろいろ話していたらそのまま友人になったりもした。



そんなことを経てテキストをひととおり読み終えてから、国語の教師にちょっとレポートを運んでくれないかと頼まれた。
日直でもないのになあと思いつつ(そもそも日直制度が存在しない学校だった)ずっしりと重いレポートを抱えて国語研究室(学科ごとに教師の詰め所があった)を目指し教師と廊下を歩いていく間に、隣で教師が口を開いた。

「結局、私の受け持ちでは、あなただけだったんだよね。ものを愛してるひと」
「隠してるだけなんじゃないの?」

この学校には、よその学校にないものがたくさんあったが、教師に対して敬語を使う習慣はなかった。教師を「先生」とさえ呼ばず、互いに名前やあだ名を使いあっていた。
恐らく当時、四十代ぐらいだったであろう女性教師は、うーん、とわずかに首を傾げながら教材を持ち直した。

「たぶんだけど、実際、ないんだと思うよ」
「それか気づいてないか?」
「かもしれない」
「なんか、それはそれでうらやましいな」

まわりより一学年おくれて入った高校で、しょっぱなからやらかしてしまった感覚が私にはあった。
そういう意味もあって、うらやましい、と私は言ったのだけれど、教師はちょっと深読みをしたのかもしれない。少し黙ってから、横目で私を見てきた。

「あなたは『キッチン』ってどういう話だと思った?」

歩きながら手の中のレポートを見おろした。
私を入れて三十八人ぶんの、『キッチン』の感想文。まだテキストを読み終えただけでカリキュラムは終了していないから、これは言うなれば読書中感想文にでもなるのだろうか。

「レポートにも書いたけど、台所は食べるところだから生きるところだし、生きるところなら死ぬところでもあるかなって」

教師はひとつゆっくりうなずいてから、わずかに声をひそめた。

「あの作品の中で『キッチン』っていう単語が出てくるのは一ヶ所だけだって気づいた?」
「え?そうだっけ?」
「最後のとこね。『夢のキッチン』のとこ」

ああ、と思いあたって数秒、私ははっとした。

「じゃあタイトルにある『キッチン』って、つまり」
「作家になりたいんでしょ?」

教師は研究室のドアを開けながら、振り返らずに言った。

「なら孤独に慣れておいたほうが良いよ。『キッチン』は吉本ばななのデビュー作なだけに、もろに作家を投影してる。高校生ぐらいだと孤独は不幸としか思えないもんだよ。ものを愛してるひとが何かかわいそうだったり変に見えるのも、まあしょうがないよ」

私は彼女の言っていることを理解しようとしつつ、促されるままにレポートの束をごちゃごちゃの教師の机の上に置いた。

研究室はホコリっぽく、タバコくさかった。
よく見たら別の教師がなぜかロッカーの中で立ち尽くし、けだるそうにタバコをふかしていた。
いちおう会釈をしたけど、反応はなかった。
あまり見かけないその教師は、いったん会話をはじめるや否や「今あなたが発したことばをひらがなにすると総数六十七字、カタカナに直し得る語句は九つ、漢字変換可能な箇所はおおよそ二十三」とか瞬時に換算し出すことで有名だったらしい。
しかしそれだと授業にならないからという理由で受け持ちがないという、不思議な存在だった。
もっと奇妙なことには、この学校のどの研究室にもこのひとのような特異な教師が必ずひとりはいることだった。

「私が孤独に慣れようと思うまえに、すでに変人あつかいされてそうなんだけど、けっこう不本意」

教師に向き直って軽く不満をこぼしてみると、彼女はひょうひょうと肩をそびやかせて、

「授業中の発言は何でも教材だから。特に貴重なサンプルはよそのクラスでも使わないとね」
「サンプルとか国語らしくなくない?」
「じゃあ事例、ね。まあ、ともかく、『キッチン』はあと一ヶ月ぐらいで終わるから、そしたら噂も消えるでしょ」
「次のテキストは何の予定?」
「それは企業秘密。でもそうだなあ、ちょっと考え直すわ。じゃ、おつかれさま」

はあ、どうも、と辞するまえに、もう一度ロッカーのほうへ目をやると、名物教師の足もとにタバコの灰がたまってちいさな山になっていた。
一体いつからそうしているのだろうと訝りながらも聞くことをためらい、お邪魔しました、と研究室を出てきた。



あれから三十年ぐらいが経って、改めて『キッチン』を読んだり、まだ生活感のない台所を見まわして、なんだかいろいろなことが腑に落ちる感じがしている。

「ものを愛してるなんて、よく恥ずかしげもなく言えるよね」

クラスの何人かが授業中の討論でそう反撃してきたものだが、でもみんな、けっこういろんなものを愛してるじゃん、そう思いながらも、私はそのことは口にしないでおいた。

私からすれば家族を愛したり、愛されたりといった感覚のほうがよくわからなかったし、ペットを家族あつかいするのもいまだにピンと来ないし、かといって自分と違うものをおかしいと否定する気はもっと起きない。

『キッチン』を数年前に読み直して思ったことは、ひとは回復しないと自立できないし、自立できないと幸福になれない、そんな実感だった。
台所で寝る、というのは一見とても奇抜なことのように思えるけど、たとえばギターが好きなひとがスタジオで寝るとか、本が好きだから図書館で眠りたいとか、あってもべつだん不思議ではないと思う。

たぶん「台所が好き」ということからして、なかなか理解が得難いのだろう。
「料理が好きなので台所も好き、だから回復のためにそこで眠る」
これだったらわかりやすい気がする。

でもそこまでかみくだいて書いてしまうと文学として成立しないだろう。エッセイならまだしも。

そしてそういうことを感性で察するには若いなりに生きてきた環境や何やらに大きく左右され得るだろうけれども、年をとるともっと現実感を帯びて、「台所」は生命維持に直結することがすんなり来るのではないかな。

まだゴミの数のほうが多い未完成の台所を見わたしながら、そんなことをぼんやり考えていた。

『キッチン』の主人公にとっての「キッチン」は、今この瞬間の私にとってはやはり文章を書くためのキーボードであったりディスプレイであったりして、あのころとそんなに変わらない。ツールが進化しただけ。
だから、じゃあキーボードやディスプレイを愛してますかと聞かれたら、はいと私は答えるだろう。
猫は家族ですかと聞かれたら、いいえと答えるだろう。
でも愛している。
家族じゃなくても愛せるし、実の家族だって家族だからということだけでは愛せない。



『キッチン』を終えて、次に取りあげられたテキストは、宮沢賢治の「よだかの星」だった。
ごく一部をのぞいて共感の嵐だった印象があるが、『キッチン』から宮沢賢治へという流れが実ににくい食物連鎖だなあと、あさっての方向に感心したことだけよくおぼえている。

何にせよ生きることのなまなましさを知るには、たいていの高校一年生はまだ若すぎて、でも誰かや何かを傷つけることにまだあまり罪を感じない年代だからこそ自分の価値観だけをむきだしにして読み違えたり賞賛できたりしたのは確かだし、なかなか得難い経験だったな。

そうしみじみとふりかえる一方で、引っ越しの片づけがだいたい終わった日にはお祝いにケンタッキーフライドチキンをこころゆくまで食べたいと唐突に思いついたが最後、もう何が何でも決行することにしてしまった。
そんな悪趣味もあのころと変わらないまま、段ボールが積まれて倒れそうな台所を前に、私はひとりにんまりもくろんでいる。




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