生きづらさを愛と光へ!NO.41 「行動」ということを意識した瞬間から、行動ということを引き寄せているなと、実感したこと。
今年は梅雨入りが遅かったが、ゴールデンウィーク明けから、梅雨にかけて、私の体調も思わしくなかった。
と言っても、梅雨時期は毎年そんなに体調も良くないので、まずまず普通と言えば普通のことである。
やる気のない日と言うよりも、体調がおかしい日が続いた。
結果、必要最低限のやるべきことをやって、無理をせず、疲れたら休むということを数日間続けた。
占い師の方にも助言されていた。
ゴールデンウィーク明けから、色々なことが重なり、やる気が出なかったことは確かである。
そのちょっと沈んだ気持ちから、なかなか上がれなかったのもあった。
その後に、体調を悪くした。
悪くしたのは宮崎に行った時だったが、恐らく疲れもその前から溜まっていたのだと思う。
その他、その2ヶ月前に検診で引っかかったために病院に行ったのもあったが、それからやはり体調がすぐれなかった。
それまでは絶好調だったが、やっぱり薬も私には合わなくなったのだと感じた。
十数年飲み続けた薬を辞めて、一年ほどは過ぎたのもあったが、病院へ行くと結局、薬となる。
検診→病院→薬服用のサイクル。
短期間服用するのは有りだと思う。
薬以外に色々試しながら、プラス、どうやらそれかもな、ということを、弟が持ってきた本に書いてあった。
それから気にかけながら日々暮らしているので、しばらく様子を見てみることにした。
現に、検診後に送られてきた封筒の厚みを見て、そこから急に体調が悪くなったことも事実である。
「私、何処か悪いの?」
と思った瞬間気持ちは急降下した。
「病は気から」は本当である。
結果的に言うと、どこも悪くないと思う。
数値が高いからと言って病院へ行くと、違うことでも数値が高くなると言う。
何だそれ?
となる、検診ってこんな事もよくある。
しかし、今回の検診で悪かったことはお金がかかるということ、検診受けて良かったことは、本当の意味で自分の体の症状をごまかさずに、受け容れて、調べて動くということを自覚したこと。
どうも、ゴールデンウィーク後から動けなかった。
人は五月病だろう?と思うかもしれないが、私的にはちょっと違う。
しかし、体がきつくて、体力がなく、やる気がない時は、ゴロゴロしたって、家事をサボったって、それを悪いと思う必要はない。
やるべきことはやっているし、側から見て、あの人どうしたの?体調でも悪い?という素ぶりは何一つ見せていないのだから…
そんな中でも、これって鬱?って自分で思ったことはあったが、とりあえず動こうと思えば動けるし、朝も起きれた、ゆっくりする時はゆっくり、ダラダラしていたから、逆に良かったのだと思う。
人生の中のほんの少しの時間、そんな事もあって良いと思う。
ゴロゴロしていたからって、部屋に篭ってたって、娘にしても、何も考えていない訳ではない。
きっと、たくさん考えていると思う
私もそうだった。
テレビを見たり本を読んだり、コーヒー飲んだりお菓子を食べたりして、ダラダラもしたが、それが無駄なことではない。
そんなゆっくりと、自分の身体を休め、労わることは大切だと思うし、そのおかげで今、「行動」しようと思える自分もいる。
ダラダラしている時は色々思う、こんなにダラダラばかりしてて良いものだろうか?
何かすることあるよね?
こんなことやってて良いの?
いくらでも頭の中は考えが浮かぶ。
先日、弟の誕生日をうちでした時も弟はやはり、忙しそうだった。
当たり前かもしれないが、仕事がなく収入がないと生きて行けない。
弟のやっていることがどうなのか?と疑問を持った事もない訳ではないが、その時感じた事は、誕生日の日でもまあ関係ないわね、と同時に、誕生日をお祝いすると言ったが、良かったのか?
若干寂しいと思わないでもなかった。
次の日は娘の中学校の授業参観と懇談会があった。
当日まで娘も学校に行くのか行かないのか?と親の私も考えるあまり、正直楽しみでもなかったが、その日は登校したので、私も参観と懇談会に参加した。
私が弟の誕生日の日に意識したことは「行動」という事だった。
弟の忙しそうな姿を見て、私が体調悪くて、やる気が出ない時も、弟は、あちこち飛び回り、Zoomにも積極的に参加、実家の畑も、早起きして、地道に活動している。
私の知らないところで動き、自分のやって行く道のことをどんどん売り込んでいる。
いや、それって凄いことだなって、そこで感じ取った私はそこで改めて「行動」ということを意識する。
そのタイミングで次の日の授業参観。
道徳の授業参観で、命の大切さを学んだのだけれど、生まれつき心臓に疾患があり、まともに学校も行けない男の子が、行けるようになるのだが、車椅子だったり、体力がないので、クラスメイトや、先生方にいつも手伝ってもらっていた。
ある時、その男の子は、自分はやってもらってるばかりで、何の役にもたっていない、だから何か人の役に立つ事がしたいと言い、施設で人形劇をすることになる。
施設の方が喜んでくれた。
しかし、男の子は12歳でこの世を去った。
12歳で言うようなコメントではなく、大人みたいなコメントを番組の中ではしていた。
12歳でも精一杯生きて、尚且つ、人の役に立ちたいと、コメントしていた。
少年が「行動」を起こすことで、人形劇を実現することになり、結果、人を喜ばせ、感動させ、少年の思いは叶った。
娘のクラスの担任の先生も、「みんなは多分書かないと思うけど、先生は外食したら、必ず感想を書いて帰ってくる、そしたらこの前お食事券が当たった これも行動したから、当たった、行動しなかったら何もない、物だけじゃないけど、行動すれば何かしら、物ではなくても、得るものがある」と仰った。
12歳の少年が亡くなって、クラスメイトの1人の女の子が、「〇〇君には物ではないけど、もっと大切なものをもらった気がする」
と発言していた。
そのことから、娘のクラスの担任の先生は自らの行動のことを話してくださった。
12歳で亡くなった少年はきっと、クラスメイトや、家族、周りの方々の役に立つことを12年という短い命の中で「行動」することで実現できたのではないかと思う。
「行動」
たまたまなのか、偶然なのか、引き寄せなのか、と考えると、やはり引き寄せだなって思う。
その直後も何故かnoteを読ませていただいていると、この人も、あの人も、「行動」ということをnoteの中で取り上げられていた。
これ、偶然?
いや引き寄せだよな〜と1人思う私であった。
かなり長い間、とても低いところで沈んでいた心も少しつづつ上がってきて、いやいや、これって
「行動」しろよ!
「行動」するんだよ!
「行動」するしかないんだよ!と言われているようだった。
私にとって、「行動」できなかった時間も大切だったのである。
今日も最後までお読みいただき、心よりありがとうございます^ ^
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