常にご機嫌を整えるのはなぜか

東京に半分暮らし、丹波を含めていろんな地域でまた半分暮らすという生活を初めて1年半近くになるが、何か一生懸命に息を吐いていた最初の3ヶ月でくたびれてしまった時があった。

その時に、普段から好きで行っていたサウナに、あえてゆっくり時間をとり呼吸を見直すことで随分と救われることを実感したのだが、改めてサウナで自分の体調と機嫌を整えることがいかに重要なのかを痛感することができたので、とても必要な苦しさだったことを今は十分に理解している。


いまでも自分を何らかの形で落ち着けるための時間が不足していると、ついついイライラしたり、不安になったり、自信喪失をしたりということが意外にまだまだあって、そういうときは「サウナ足りてないんじゃない?」が友達とのお決まりのやりとりである。


サウナが足りてるとなぜ良いのかということについては彼がうまいこと書いてくれているので、ちょっと引用させてもらう。



サウナに入り、身体を熱くすると、交感神経優位になる。呼吸が早くなり、血液が巡り、脈がはやくなる。身体は必死に冷まそうとして結果的に交感神経が優位な活動的な状態になる。

一方、水風呂につかると、副交感神経優位になる。呼吸は深く、ゆっくりになり、血液の流れは最小限になり、脈も遅くなる。時間の感覚も、心なしかゆっくりになる。身体は保温に必死になって、結果的に副交感神経が優位な、落ち着いて状態になる。


なんせ交互浴によって心は落ち着く。これは間違いない。


いくらか生きていると、割といろんな経験が積み上がってきて、そこまでイライラすることは減ってきたり、不安になることにも対処できるようにもなり、自分の自信を損なわない方法についてもカナリ詳しくなってきたことを自負しているけれども、それでもなお落ち込むことについて努力不足だな、と思って苦しくなることもあったりした。


なんだかいろんなことがちっぽけなことに思えて、自分の気持ちが世の中にある色々なものを包含して許せるような、寛大な気持ちになれたことがある人ならば、なぜあのときのようにいつも穏やかでいられずにイライラしてしまうのだろうと思ったことがあるはずだ。なぜこうもイライラしたり、不安になったり、寂しくなったり、孤独感を感じたり、自信を失うのか、これって躁鬱病なんじゃないのかと思ったりすることもあった。


が、それを吹っとばせる方法があって、今はそれを大切にしている。


ひとつは「自分の状態は一定ではないと諦めること」だ。
ひとつは「異常を感じたらすぐ自分の呼吸を取り戻すこと」だ。


自分の状態は一定ではないと諦めるということは、つまりある意味では謙虚でいることと等しい。常に最高の状態が続くなんてことは有り得ないし、それを保つ努力もしてないならばなおのこと、コンディションは崩れて当然のことであるが、それをなぜか自分の状態はなにもしなくても最高にあるのが普通であると思い込んでしまいがちだが、そんなわけにはいかない。

心は身体と深く連動していて、身体の状況が整えられれば、心も整えやすくなるので、身体を整える努力は常にしておかなければ、身体の調子が崩れるだけで簡単に心の状態は崩れるということを知っておかないと苦しい。


さらに自分の呼吸を取り戻すことができれば、自分が絶対に落ち着くことができることを知っていることが何よりも大切であるが、さらにその体験を何度も重ねて実感をしておくことで、身体的経験を経て実際にそれが事実であるということを身体そのものに刻んでおくことも大事だと思う。


僕がサウナに行ったり、深呼吸をしたり、座禅を組んだり、ヨガをしたりするのはそのためであって、深く、落ち着いた、自分のことをとても大切にするための深呼吸を自分がサボらない限り、自分のことを惨めに思ったりすることがなく、心が満たされたり、自分が持っているものや周りを囲んでくれている環境に対して感謝し、そして自分に自信が湧いてくると感じている。


とにかくこれを最近はとりあえず最優先にして大事にしている。


それは自分の悪い状態における心理的な不安、自信喪失、寂しさ、悲しみ、から人を傷つけやすくなったり、衝突しやすくなって、必要のない痛みを誰かに与えてしまうことにより自己嫌悪につながることを知っているからだ。

自己嫌悪することにより自信を喪失しやすくなるので、不安定な自分をさらに深く傷つけることになり、ダウンスパイラルが自動的に働き始めてしまい辛さがさらに深まっていってしまう。そうしたことが、自分のことを嫌いになってしまう原因のひとつになってしまうことを感じているからだ。


大切な人のことを傷つけてしまう自分のことが好きだという人というのは、そうそういないものだ。無益な痛みや争いは自分を律することから防ぐことができるが、それはちょっとした自分のメンテナンスを疎かにすることなく、常に自分が安定しないからこそ、行為を安定させ、自分にとって嬉しい時間を最優先することを怠けないことから始まると信じている。


自分にとって嬉しい時間というのは何なのか、ということをまだ見つけられてないとしたら、それをまずは特定することが大切だし、それを見つけるための宝探しは決してつまらないものでもないはず。まずは自分を大切にするための時間をしっかりととり、毎日でも続けたい嬉しいことが幸いにも見つかったのなら、遠慮せずにその嬉しさを味わうべきだと思う。

自分のためにも、誰か大切な人のためにも、それが大事だと思っている。


急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。