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どんなもんじゃ?
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あえて泥をかぶる―榎本武揚の生き方
江戸開城によって徳川家は八〇〇万石の所領を失い、七〇万石の静岡藩として再出発した。大幅な所領の削減で禄を失った徳川家の遺臣に生活の道を与えたい。箱館(現在の函館)に地方政権を築こうとした榎本武揚の目的は、そこにあった。
榎本は実力を行使して箱館と周辺地域を占領した。この地を開拓した暁には徳川家の血筋を元首に迎え、薩長藩閥のもとでは生きていけない人々が暮らす地域にしようと考えていた。だが、資本が
小藩の幕末サバイバル
旧幕府と明治新政府とが武力衝突した戊辰戦争に際し、三春藩(福島県)は京都を巡る政局に注目していた。そのころ、いずれの藩も旧幕府につくか、新政府側に立つかは慎重で、多くは日和見だった。わずかに五万石の三春藩は、北には東北地方最大の仙台藩、西には会津藩があった。もちろん近隣の大藩の動向は死活問題だが、三春藩の首脳部は中央の情勢にも着目し、その甲斐あって戦火を被らずにすんだ。
仙台藩は、はじめ新政府
攘夷の果てにあるもの
ペリー来航によって欧米列強との貿易が始まると輸出品目となった絹や茶の値が暴騰し、やがて諸物価に波及していった。庶民の生活が脅かされたのにとどまらず、関西の両替商も困惑した。金銀交換比率が国内と国際相場で大きく異なるため、突然の国際化によって対策もないまま大打撃を受けたからだった。こうした不利益は攘夷という感情論に結びついた。外国人を国内から力ずくで追いだそうというのだから無茶な話だが、武家社会の
もっとみる賢者は改革せず―二宮尊徳
徳川家康の謀臣として名高い本多正信は「百姓ハ財ノ余ラヌヤウニ、不足ナキヤウニ治ムル事道ナリ」と統治の姿勢を説いている。いつしかそれが家康の発言と誤解されたうえ、「百姓は生かさず殺さず」という表現に置き換えられている。その言葉どおりに江戸時代の農民は食うや食わずの生活を強いられたわけだが、時期によって程度の差があった。
江戸幕府が開かれてしばらくは開発ブームが続いた。耕地面積が広がるとともに人口
やっぱり秀吉はスゴイ
織田信長が本能寺の変で歴史の表舞台から去る一年前にあたる天正九年(一五八一)のことである。信長の重臣として中国地方の攻略を任されたた羽柴秀吉は、鳥取城攻めという困難な命題に直面していた。
姫路城を根拠地とする秀吉が抱えていた軍勢は、およそ二万だった。中国地方で敵対関係にあった毛利輝元は五万ほど動員できる。本格的な武力衝突となれば信長に援軍を要請するほかないが、織田氏は四方に敵対勢力を抱えており