賢者は改革せず―二宮尊徳

 徳川家康の謀臣として名高い本多正信は「百姓ハ財ノ余ラヌヤウニ、不足ナキヤウニ治ムル事道ナリ」と統治の姿勢を説いている。いつしかそれが家康の発言と誤解されたうえ、「百姓は生かさず殺さず」という表現に置き換えられている。その言葉どおりに江戸時代の農民は食うや食わずの生活を強いられたわけだが、時期によって程度の差があった。
 江戸幕府が開かれてしばらくは開発ブームが続いた。耕地面積が広がるとともに人口も増加し、江戸時代中頃には三〇〇〇万人に達しているが、後半に入ると増加は頭打ちになる。それまでは毎年の作柄を見て年貢を決めていたのを、過去の平均から定額の年貢をとるようになったためだった。不作の年でも容赦なく年貢をとるので、人口の増加に歯止めが掛かったのだ。当時は農業を人力に頼っていたので、人口が増えなければ生産の伸びも止まる。
 そのころ貨幣経済の発達が農村を苦しめていた。農村では衣類など生活必需品を自給自足していたが、酒など都市で生産される贅沢品を現金で購入するようになった。また、年貢を現金で納めさせるようになったため、米を換金する必要に迫られたのだが、それによって米問屋に利鞘をとられるのも重い負担になった。
 こうした問題は、社会の枠組みを変えなければ乗り切れないのではないかと誰もが考えそうだが、二宮尊徳は従来の制度を残したまま、疲弊した農村を立て直している。
 尊徳は小田原藩の農家に生まれ、幼いときに洪水によって実家が離散し、伯父の家で養われた。薪を背負って読書する二宮金次郎の像は、養家のために働きつつ学問を志した尊徳の少年期の姿を模したもの。彼は養父に課せられた農作業を終えると、砂利に埋もれた実家の田畑を少しずつ掘り起こし、ついに誰の手も借りずに家を再興した。勤勉さは自分のためばかりでなく公益のためにも発揮され、崩れやすかった堤防に松の小苗を植えて洪水を防ぐこともした。こうした姿勢が藩の家老に見込まれ、家政の立て直しを依頼されると短期間で成功させた。それがきっかけとなって小田原藩分家の旗本の領地で財政再建を任されたのだった。
 任地の桜町(栃木県)では新しい産業を興すことはせず、大規模な開墾もしなかった。ただ、役人の不正を排除し、領民を励ましながら少しずつ耕地を広げて財政を再建した。その間、倹約と勤勉を説いた尊徳の仕法を窮屈と感じる領民もいた。そうした反感が募ったとき、尊徳は成田山へ断食修行に赴いた。やせ衰えた彼が村に戻ると、領民の反感は消え失せた。
 その後、深刻な冷害が日本列島を襲い、全国を飢餓に陥れた。天保の大飢饉である。しかし、桜町では尊徳が雑穀を備蓄させていたので一人も餓死しなかった。村人は尊徳を信頼し、生活に希望を見いだして、さらに生産に励むようになった。
 この実績が尊徳の名を高め、全国各地の農政に影響を与えたのだが、その手法にはなんらの画期性もない。身分的には為政者を補佐する立場に過ぎず、思い切った改革をなすべき資格を与えられていなかったこともあってか、不正の排除、そして倹約と勤勉という、当たり前の努力をしただけだった。だが、その当たり前の努力は、誰にでも出来ることではなかった。尊徳の死後、時代が幕末に近づくにつれ全国で一揆の発生件数が増えており、むしろ農村の窮状は深刻化していたことがわかる。
 再び日本の人口が増加に向かうのは、従来の枠組みを根本から変えた明治維新を迎えてからのことだが、近代を迎えてからも尊徳は敬慕され続けている。努力という言葉が縁遠くなった現代でも、小細工なしに真面目さだけで困難を乗り切った姿勢は再評価されて然るべきだ。

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